悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/09/15

高校の友達(唯一の!)から電話が掛かってきて矢沢永吉のライブに行くので、テレビに映るだろうから見るようにと言うので来たので仕事から帰ってくると晩御飯を食べながら観ていたのだけどちっとも映らなかった。五万人(そんなにいるか知らないけど)がタオルを投げているのは良かった。

近松秋江「別れたる妻に送る手紙」と読んだ。 妻に「お前」と語りかける書簡形式なのだけど、妻の母を〈不潔〉と書き、さらには〈長く男一人でいれば、女性も欲しくなるから、矢張し遊びにも行った。〉などと知り合った女との顛末を延々と続けるへんてこりんな話。

知り合った女〈お宮〉にもたぶらかされるばかりでちっとも上手くいかない。やっぱり〈お前〉のほうが良いなどと言う。甘ったれでだらしのない感じなのだけど、〈「こりゃ好い女を見付けた。此の先きどうか自分の持物にして、モデルにもしたい。」〉と不穏なこともいう。さらに、〈私には其大学生の江馬と吉村と女との顛末などに就いても、屹度面白い筋があるに違いない、と、それを探るのを一つは楽しくも思いながら、〉といったりとちょっと冷静なところもちらほら見せる。この辺りの部分が妙に気になりながらも、読みすすめていくとラストがとても良くってなにが本音かどうかはどうでも良くなってしまった。

上田という男が出てくる。解説によると正宗白鳥のことらしい。〈私〉は上田の行きつけの待合でお宮に出会うのだけど、上田は〈私〉が好いていたお宮を買ってそのことを〈私〉に対して感じ悪く語る。お宮の職業がらそれは仕方がないと思いつつも納得できない気持ちもあって揺れ動く。上田は手を緩めない。別れた妻のことまで持ち出され結局〈私〉はしょげてしまう。だったら、とお宮からもらったしごきのことをおもしろおかしく語ろうと思う。そこで小説は終わる。しごきはもう会えなくなるからと貰ったものだった。なので、嬉しいばかりではないのだけど〈私〉は嬉しいとも思う。これは悲しいことだ。恋が叶わなかったことの慰めだろう。それを大事にしていることは情けないことに思える。けれども人からみたら情けないことでも大事したことはあるのだし、そうでなければやってられないような気分もあるのだろう。それを人に面白しろおかしく言っちゃおうかな、と思うのだ。悲しい。

最初のほうで〈私〉は妻と離れて寂しいとしつつ手紙について〈これが他の事と違って他人に話の出来ることじゃなし、また誰にも話したくなかった〉と言っている。手紙と書いたけど、やっぱり小説なのであって、お宮との顛末は〈別れたる妻に送る手紙〉を書く理由とも読める。迫力があるように思う。よかった。

夜歩く

その日

夜歩く、というのは良い。ディクスン・カー横溝正史の小説にそういうタイトルのものがあったと思う。はやみねかおるに「踊る夜行怪人」というタイトルの本があって、夜歩くを連想する。中身と関係なく、夜歩くという言葉が良いと思う。

夜歩いていると、川でも見てみようかという気分になったので橋の上で立ち止まり欄干に手をかけて4メートルほど下に見える川面を眺めてみたけれど、すぐに飽きてしまった。川面は明るく光っていて上空には月がみえる。月は丸くて満月のようだったけれど、少し楕円気味にもみえたので満月ではなかったかもしれない。満月を見たときは疑いなく満月を見たと思えるものではないだろうか。欄干に腰のあたりをあずけもたれかかり、両腕を欄干に突っ張り棒のようにして空を見上げた。「モデル立ちだね」と大学に入ったばかりのころ、食堂の机で同じような恰好をしていたら、ほとんどその日にはじめて話した女の人に言われたことを思い出した。思い出したというより、「不細工なくせに気取ってるね」という意味に解釈した私は恥ずかしい気持ちになり、もともと何気なくそんな恰好をしてしまうことがたびたびあったためこれは改めなくてはならないと意識するようにしてからというもの、その恰好をしていることに気がつくたびにあのときの女の人を思い出すようになってしまった。つまり、私は月を見るより前から月を見ることに飽きていたようだった。飽きずに月を見ているというのがどういう状態なのかいまいちイメージできないとはいえ、ちょっと目をそらすと、いったいどこにあってどんな形でどんな色をしていたかなんてすっかり忘れてしまう。

ぼんやり歩きたい気分になって歩くことがある。しかしぼんやり歩くことはかなわず、あるっている最中も私が甲子園の決勝戦で負けたチームの監督だったら控室でどんなふうに訓示めいたことを垂れようかなどと言ったことを考えてしまい、歩くことが退屈なためにそのようなことを考えてしまうのかそれとも歩くと言うことがそのような下らない考えを誘いだしているのか、皆目見当がつかないまま気がついたら家の前にいるという始末だ。そういうときはがっかりする。だとすると私がぼんやり歩こうと思って出歩くときに期待していることはどういうことなのだろうか、と思うこともあるのだけれどもはっきりしない。それこそぼんやりとしたイメージがあるだけだ。とはいえ。

読書日記じゃない日記

陽がゆっくりと沈んでいくことに気がつかないまま、いつのまにか夜になっていた。ある瞬間を感じ取ることができない私はいつでも、思い出すことで存在しない瞬間を彩りのあるものとして偽っているのではないだろうか。

あるいは写真。外苑の歩道でピースサインをしている人はたしかに私に向かってピースをしていたはずなのに、それが過去となってしまった今、ピースサインをしている女の人の視線は宙に浮いているようだ。 写真を見ても何を考えているのかはわからないけれど、楽しそうな感じはした。いったいあの時、私はなにを考えていたのだろう。想像することは可能だし、きっと想像は当たっている。私の感情は言葉ほどにも豊かではないのだ。

その夜。きっとすべての人は私のことを忘れてしまっていた。雨に濡れた路面を車が走っていく音がした。車の音であると、車の音がしなくなったあとに気がついた。シャーという路面が乾いているときにはしない音だ。あなたがたが私を忘れるとき、私も私を上手に手放すことが出来るかもしれない。

夜が明ける前。目を覚ます。夢を見ていたことに気がついた。思い出そうとしたがまったく関係のないことを思い出す。私もまたあなたがたを忘れなければならないと不意に気づいたけどはたしてそれがいかなることであるかはわからなかった。

正確さとは別方向へのメモ

本を読むこと


本を読んでいるときに、本を読んでいないときがある。目線は文字を追っているのに、別のことを考えているような。そんなときは、読んでいる本に重要性を感じていたならば、目線を戻して再度読むだろうし、場合によってはそのまま読み進めるだろう。


歩いているとき(もちろん歩いているとは家を出て会社まで向かう道中をさすのではない。もしその道中で昨晩夢に出てきた○○が前を通り過ぎ、思わず後をつけ気づくと迷子になっていた。)、多くのことに気をとられてしまいただ歩く喜びに満ち溢れているわけでもない。


野球場でわたしたちは野球を楽しむだろう。スタンドからの野球はストライクゾーンが9分割されない。野球場へ行くことは偏執さとは反対のことなのかもしれない。


祖父はいつも本を読んでいた。鬼平犯科帳やそんなようなものを、いつも読んでいた。誰とも本の話をしなかった。誰かと触れ合うために本を読むとはどういうことだろうか。祖父の本を読む姿を、いったい何人の人が見ただろう。わたしと、あと三人くらいじゃないだろうか。


おとといの会話から


あまりの真面目さに辟易する。丁寧に本なんか読みやがって。

街へ行くし本も抱えていく。

万引きを自慢するなバカ。

「正確なあらすじをかきたまえ」。

千枚通しでページに穴をあけ一本の糸を通す作業を夜通しする。

茶店で隣の人の声に耳を澄ましても、正確な聞き取りを求めたりしない。それでもその会話が何かの慰めになることはある。

誰かに何かを言う必要があるのか。ないのか、そんなことを考える必要なんてない。


引用


<美術系の人が本業以外の余暇に凧を作ったりパラパラマンガを描いたりするように、小説家が(余暇に)文章を書くにはどうすればいいか。美術系、音楽系の人たちのよろこび=手なぐさみ=気晴らし。>カフカ式練習/保坂和志


〈星座なんて知らないほうが空は不思議にみえる〉気まぐれな朝/森は生きている


退屈について


退屈で退屈で仕方ないから本を読んだ。今でも退屈で退屈で仕方ないから本を読んでいる。机に向かって読んだりしない。メモをとったりしない。読み終わった後に人として成長したり、思慮深くなったりしない。帰り道に落ちていた石ころを家まで蹴って歩いたみたいに本を読んでいる。
 

読書日記

7/22

ジェイン・オースティ『高慢と偏見』(中野康司訳)を読んだ。

末娘のリディアの駆け落ち騒動からの展開はもうたまらないという感じで、ハッピーエンドの予感で満ちている。
姉妹物?といえば『細雪』が思いうかぶのだけど、『細雪』は衣服の描写がとても目立ったのに比べて『高慢と偏見』はほとんどなかったんじゃないだろうか。さんざん食事をしているのに、食べ物の描写もない。服の描写にかんしてはいえば、物語序盤、ベネット家が、ビングリーと出会ったディナーから帰宅したのにちベネット夫人がベネット氏に服の話を始めると、すかさず〈服の話はやめてくれとベネット氏は言った〉のだから仕方がない。ベネット夫人は、人が喋ってほしくないことをべらべら喋り、家族が顔を覆ってしまうようなまったく空気の読めない喜劇的な人物なのだけど、服のことはベネット氏に従ったようで以後ほとんどしない。

 

ソウル・スクリーム、魂の叫び。生から死進む道、私はいったいなにに出会ってきたのだろうか。

 


7/23

 

iphoneを購入して、家に届く。こんなことでも嬉しい。
設定やらで、時間が経ってしまい本は読めず。
『安東次男 渋沢孝輔 現代詩論Ⅱ』(晶文社)を少しだけ読む。

 

 

7/24

過去になく仕事が忙しい。しばらく続きそうだ。
前日と同じ本を少し読む。

そういえば、『高慢と偏見』について、ダーシー氏がエリザベスに好意を抱き始め二人が再開する場面は
体調を悪くしビングリー氏の家に宿泊していた姉を見舞うためにエリザベスが徒歩で訪問するというものなのだけど、エリザベスの服装が話題になる。

 

 

7/27

 

多和田葉子『かかとを失くして』を読んだ。
「書類結婚」のために知らない街へとやってきた「私」の話。かかとがないということについて、作中でもそれとなく触れらている。「私」はいろんな人のかかとが気になる。それは、自らが子供にかかとがないと言われたためだろうか。かかとが気になるのは女の人のようだ。女の人はかかとがあったりなかったりするのか。かかとがないということはどういうことなのだろうか、と思ってみると爪先立ちしているのと同じような感じなのかもしれない。つんのめったような、前かがみのような、前へと足を進めるしかないような。たしかに作中の「私」はひたすらに前へ前へと進んでいくようだ。そもそも文章とはそういうものなのかもしれない。うねうねと思いがけない理屈を結ぶ文章は躓きそうになりながら踏み出す一歩一歩のようで読んでいて、楽しい。以下適当に、線を引いた箇所。楽しかった箇所だと思う。

 

この日は主婦らしくうちへ帰ってからいわゆる掃除をしようと思ったが 、このように広いうちを掃除するには奥の部屋から始めるのか 、玄関から始めるのか 、窓を拭いてから床を磨くのかその逆か 、誰も教えてくれる人もなく 、曖昧な調子で台所から始めたのはいいが 、床は拭いてもきれいにならず 、と言って初めから拭くほど汚い訳でもなく 、廊下もまた光ってはいないが私がモップで行き来しても 、それで光る様子もなく 、張り合いのない仕事に肩ばかり凝ってきて 、テ ーブルクロスを洗濯してみたが退屈で 、いったい何を解消しようとして家事をしているのか 、自分でもはっきりせず 、結局汚いのはこの家の中では自分の肉体だけではないか 、私こそ毎晩知らない男を訪問して汚いのではないか 、と思いお風呂に入ることにした 。

 

掃除をしようと思ったが、風呂に入ることにした。というだけの話なのだけど、けっこう長めの一文で、読んでいるとおかしな気分になりつつも間違っている気にはならない。

他にも。

 

台所へ行くと卵をゆでる鍋の中に郵便葉書が一枚入っていて 、どうやら病院の予約確認らしく 、日付は今日で 、しかも行くのは私だった 。夫が予約手続きをしてくれたに違いなく 、調子の悪いところはどこもなかったが 、夫の思いやりがありがたく 、自分では気がついていなくても気候が変わったのだから病気になっているのかもしれず 、今日は学校へ行く気にはなれないので都合もよく 、天気は 、と窓から外を見ると 、曇り空が重くたれこめ 、格好の病院日和だった 。

 

〈気候が変わったのだから〉というところに飛躍があるようにも感じるけど、たしかに気候が変わって体調が悪くなることはあるのだからおかしくないといえばおかしくない。

読書日記じゃない日記

 7/26

 

ここ数日で何度か飲み会があり、憂鬱。
お酒の席じたいは嫌いじゃないのだけど、飲み会は好きじゃない。〈仲間を集めて 愚痴を並べて そんな身の上を酒で流すような真似〉が好きじゃないのかもしれない。たしかに職場の人で集まってその場にいない人の悪口を肴に酒を飲むのは気分の良いものではない。


とはいえ私自身性格が良くないことは自覚しているところで、人の悪口だってよく言っている。嫌なやつがいて、嫌なやつだなあと思っていて、ぽろっと口にしてしまったとき、周りの人も同じように嫌なやつだなあと思っていたことがわかったりすると、途端に悪口に花が咲く。するとなんだか不憫な気もしてきて口が重たくなってしまう。いや、なんというか、私は、きっと悪口を言ったりすることが好きなのだ。けれども同時にそういう自分が嫌いでもあるのだ。
人のことを嫌いになるとき、自分自身をその相手に対して見ていることは多い。

 

 

あるいはまったく別の話かもしれない。先に、お酒の席じたいは嫌いじゃないと書いたけれど、はたしてどうか。嫌いじゃないというのは、わりと好き、ということではなくて好きでも嫌いでもないということで、お酒の席というのが、賑やかな場所ということであるのならば、賑やかな場所は好きだ。それは「お酒」と関係がなくてもいい。

 

お酒を好きな人はたくさんいて、お酒が積極的に嫌いな人もけっこういる。お酒というか、酔っ払いであったり、酒席であったり。

 

お酒は強力だ。デカダンな魅力がある。ハードボイルドな感じもする。カッコいい。カッコいいものというのは、反対することもカッコいいのだ。カッコいいことに反対することはカッコいい。

 

だから私も、酔っぱらってみたりする。お店を出て数人でゾンビになってふらふらと駅まで歩く夜は良い夜だなと思うことだってある。反対に生涯素面の気分で反対してみてもする。けれど実際はどうでもいい。お酒にはあんまり関心がない。これはたぶん相対的な話だろうけど。

 

どうでもいいことは悲しいことだ。無理に好きになったり嫌いになったりする必要は、何事だって、ないはずだけど、好きになったり嫌いになったりしたいものごとはある。


一生懸命聴きかじっていたら大好きになるCDだってあるし、反対反対で気分はもう戦争みたいなことだってあるだろう。しかし、好きとか嫌いとかどういうことだろう、とふと立ち止まって考えてみると、自分にとってはどうでもいいことだったと思うことがある。

 

私の憂鬱やいらだちはもしかしたら、自分のこのどうでもいいというような投げやりな気分に対してなのかもしれないと思う。

 

みんなが好きなものにたいしてどうでもいいと思うことはなんだか感度が悪いみたいだ。感度が悪いことは悲しい。

 

好きなことは好きだし、嫌いなことは嫌い、とすっぱり楽しく過ごせればそれでいいのだし、周りと比べて自分の感度がどうだとか、まったく気にすることではないのだけど、気にしてしまう以上、気にしてまうのだから、自分でも面倒だと思いつつも悶々とした気持ちの夜は意外と深まらない。

読書日記

7/9


休みの日に『正しい日間違えた日』を観ました。
ある一日を二つのパターンで描いた映画。ホン・サンスの映画に出てくる距離といえば「カンウォンドの恋」が好きなのだけど、今作の距離もとても好きなものでした。
同一と思われる一日を二度繰り返し、出来事が微妙に違っているというもので、水原に映画の上映と特別講義にやってきた主人公の映画監督が、画家をしているという女をナンパするというだけの話なのだけど、おもしろいのが映画監督が一度目の一日を踏まえて二度目の一日をむかえているようにもみえます。みえますというか、観ている側からすれば、たしかに一度目の一日を観た後で二度目の一日を観ているのだから、一度目を踏まえて観ているのだし、現に「一度目」とか「二度目」というふうに書いています。とはいえ、そんなことも面白いのですけど、それ以上に画家の女を演じているキミ・ミニが可愛くて、この一月で観た三本のキム・ミニ主演のホン・サンス映画のなかでは可愛さだけでいえば圧倒的に可愛かったように思います。その可愛さもちょっとヤバい可愛さで、ヤバいというのは、関わりたくないような危険なヤバさなのがおかしいです。主人公がナンパして二人で喫茶店に行った場面での会話における、頑なな感じだったり、主人公を自分の先輩の店に連れて行ったけど酔って寝てしまう奔放さだったりちょっと厄介な雰囲気があります。喫茶店での場面と先輩の店での場面の間にある日本食店での長回しのシーンで酔っ払ってしなしなしている場面は可愛いというより卑猥だしヤバいのです。一度目と二度目の一日ではやりとりが少しづつ異なっているけれども、このシーンでは二度ともしなしなしていて、ちょっとどうかしているんじゃないかってくらい変態的でそわそわしてしまいました。

 

渋谷の映画館で観たのだけど、ホン・サン水ソーダというダジャレの飲み物が売っていて、「それから」と「夜の浜辺でひとり」のときは飲めず、今回ようやく買えてちょっと嬉しい。

 

 

 

 

 

浅羽通明『「反戦脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』(ちくま新書)を読んでいたら、以下のような文章がありました。

 

  「東京新聞 」で金原氏はこう書きました 〔 * 5 〕 。 「命より大切なものはないと言うが 、失業を理由に自殺する人が多いとされるこの国で 、失業を理由に逃げられない人 、人事が恐くて何も出来ない人がいることは不思議ではない 」 。 「反原発の総理大臣にも 、原発推進の流れは変えられなかった 。天皇がそれを望んでも変わらないだろう 。数万人がデモを起こしても 、デモに行かなかったその何百倍 、何千倍の人々が願っていても 、変わらないままだ 」 「人事への恐怖から空気を読み 、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚われた人々には 、もはや抵抗することはできないのだ 」ペシミスティックな断定ですが 、これほどリアリティに富んだ脱原発への懐疑論はそうはないでしょう 。金原氏は 、 「一階 」で思考する人々を視野にしっかり繰りこんで考えている 。 

 

これは3・11が起きた年の秋の文章だとのことです。以前菊地成孔金原ひとみのある小説について日本におけるラティーノ文学の最も優れたものの一つだというようなことを言っていたことがあったと思います。ラティーノ文学なるものがいかなるものなのかなるほどよくわかりませんが、二つのことは繋がっているような気もします。読んでみようかしら。