悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/10/08


7日は鎌倉へ行く。キャラウェイでカレーを食べる。二年ぶりくらい。開店の30分ほど前に並ぶも結局一時間くらい待つ。その後、古本屋を二軒周ってから逗子へ移動し神奈川近代美術館へ。逗子から乗ったバスが混んでいて、みんな美術館へ行くのだろうか、と驚いたがそういうわけでなかった。ばらばらと降りていく。乗ったままの人も。わたしと連れは美術館の前で降りてほかにも数人降りた。アルヴァ・アルトの椅子に座れるコーナーがあって、窓際にリビングっぽいかんじで物がおかれていた。夕方の日が射し込んでみんな熱心に写真を撮っていた。


本日は一日家にいた。夕方にKと読書会をする。次回は五冊目で千野帽子『人はなぜ物語をもとめるのか』。読書会と言ってもスカイプで少し話すだけ。少し話すだけ、というよりささやかな目配せというか、読んだと言いあっただけかもしれない。よかったらあなたもぜひご一緒に。


三日間で読み終わったのは谷崎潤一郎吉野葛・盲目物語』だけ。
吉野葛」は〈私〉が友人の津村と吉野へ行く随筆風の小説。二人は尋ねた家で〈ずくし〉を勧められる。〈ずくしは蓋し熟柿であろう。〉と〈私〉は言う。


しきりにすすめられるままに、私は今にも崩れそうなその実の一つを恐々手のひらの上に載せてみた。円錐形の、尻の尖った大きな柿であるが、真っ赤に熟し切って半透明になった果実は、恰もゴムの袋の如く膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅玕の珠のように美しい。市中に売っている樽柿などは、どんなに熟れてもこんな見事な色にはならないし、こう柔かくなる前に形がぐずぐずに崩れてしまう。


〈私〉は〈結局大谷氏の家で感心したのは鼓よりも古文書よりも、ずくしであった。〉とあるけれど、わたしはこの小説のなかでこの場面が一番好きかもしれない。


ちょうど秋。鎌倉は10月とはおもえない暑さで季節感なんてこれっぽちも感じず。
昨日かおとといだかに食べた銀杏が美味しかった。銀杏は秋だろうきっと。昔近所にカラムーチョのキャラクターみたいなおばあさんがいて、銀杏を毎年拾っていた。きっとあのおばあさんはいろんなところにいるのだと思う。〈あいかわらず季節に敏感にいたい〉と思いつつも、吉野葛を読んでいて秋だということを思い出したのでびっくりする。ページから顔をあげて、いま何が見えているでしょうか。

 

 

吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)

吉野葛・盲目物語 (新潮文庫)

 

 


 

読書日記

2018/10/05


仕事。朝から曇っていて昼過ぎから雨が降る。粒の細かい、逃げようのない雨だった。


多和田葉子『文字移植』を少し読む。


これも言わなくてよかったと思った時にはもう遅かった 。わたしは何も話したいことがないと言葉数が増えて無駄なことばかり言ってしまう癖があった。


ブログも書かなくていいことばかり書いている。黙っていれればそれでいいのだけど、無駄なことばかり言ったり書いたりしてしまうことが問題だ。


もっと、石を拾ったことや、その石を運んだこと、殺した虫を土に埋めたこと、穴を堀って虫をつぎつぎ放りこんでいると埋めるまえに蟻がたかったことを書いたり話したりするにはどうしたらいいのだろう。なんちゃって。


読んだのは、「かかとを失くして」と「三人関係」とが収録されている講談社文芸文庫のもので、いずれも妙な理屈が楽しい。「かかとを失くして」と「三人関係」を読んだときも似たようなことを書いた気がするけど、文章にかぎっていえば似たような楽しさがある。

 


どうやらわたしは喉が渇いているらしかった 。空気が乾燥しているために体を動かさなくてもこの島ではすぐに喉が渇いてしまう 。島そのものが乾燥してしまっているらしい 。それというのもバナナ園が多量の水を必要とするからで人々が機械で無理に地下水を汲み上げてはバナナ園に撒いているうちに島の土壌は乾き切ってしまったのだと内科医がわたしに説明してくれたことがある 。だからと言ってバナナの輸出をやめてしまうのは外交的にも経済的にも不可能だという意見が常識として通っていた 。内科医自身もそう信じているようだったけれどもわたしはそういう意見はなんだか経済援助をやめたら発展途上国の人たちはすぐに飢え死にしてしまうという意見と同じで全然信用できなかった 。


〈それというのも〉から変な感じで、その後まともなことを言っているようだけど変な理屈の上に載っているので逆にますます変だ。理屈の上に、というのは変かもしれない。前の文章が土台となって次の文章があるというわけではない。まっすぐ進んでいると思ったら少しずつ曲がっている、というイメージの方が合っているかもしれないと、思ったけど、文章のイメージというのも変だ。イメージもなにも引用した通りに書いてあったのです。
 

 

 

 

読書日記

その日


A・ A・ミルン(石井桃子訳)『クマのプーさん』を読む。

 


「コブタ。」と、ウサギは、えんぴつをとりだして、そのさきをなめながら、いいました。「きみは、ちっとも勇気がないんだな。」「でも、とっても小さい動物になってみたまえ。」コブタは、かるく鼻をすすりながら、いいました。「いさましくなろうったって、むずかしいから。」


わたしたちもきっと小さな動物で、いやそんなことはなくてせいぜい小さな人間なのだけど、いさましくなろうったって、むずかしいのは、きっとそうだ。
開き直るのは良くないかもしれないけれど、集中を保っていられないほどの速度で日々の生活がやってくるので、いかんともしがたい。

 

 


その日


休みだったので、髪を切りに行く。
美容室に行くたびに書いている気がするけれど、本当に気が滅入る。つやつやした髪をした人たちが美容師と楽しそうな会話をしているのを見ているとここにいてはならない気がしてならない。しかし、本日、わたしが会計をしていると、初めてその美容室に来たのであろう十代後半くらいの人が緊張した面持ちをして待合の椅子で手持ちぶさたにしているのに気がついて、もう何度も通っているわたしは得意な気持ちになった。帰り道で自己嫌悪。


帰りの電車でカルヴィーノ(米川良夫訳)『不在の騎士』を読み終える。


甲冑の下は空っぽである主人公アジルールフォは肉体を持たないため、食べたり寝たりすることはない。


瞼を閉ざし、おのれの意識を失い、虚無の時間に沈みこみ、やがてまた目をさますと以前と同じ自分を取り戻し、その生活の糸をふたたび結び合せることができるという能力がどのようなものであるのか、アジルールフォには到底、知ることは出来なかった。p16


幸いにしてそのような能力をもつわたしは、今夜眠る。この場所で意識を失い、なにもかもとの区別がなくなってしまうといい。
未来を待ち焦がれて、急ぎ足でかけることもできない。せいぜいわずかに残された希望は一歩一歩の徒歩だ。まったく嫌な奴だし、生活もできなそうとはいえ。
 

読書日記

その日


西尾勝彦の詩集『歩きながらはじまること』を少しづつ読んでいる。
やさしいことばで書かれていて、筋もあるのでわたしでも楽しい。


「ならまちの古本屋」という作品は古本屋に行ったことが、行分けで書かれている。淡々として、古本屋の場所が語られ店主と酒を飲んだことが続く。
店を出る場面でふと〈少し浮遊しつつ/ぼくは店を出る〉とある。浮遊したようにではなく〈浮遊しつつ〉だ。何がということは書かれていない。体がかな、と思う。心が浮遊するというのはあるかもしれない。浮足立つとか。ふわふわした気分。けれども心とも体とも書かれてはいないのであって、やっぱりただ〈少し浮遊しつつ〉だ。良い。好き。そのあとは〈ぼくは店を出る/最近/この店で本をかっていないなあ と思う〉となって、もう浮遊とは関係ない。一瞬だ。ささやかだけど目立つ。飛躍というのだろうか。それこそ浮遊か。


プレゼントを買いに百貨店へ行く。そもそもプレゼントを買いに百貨店へ行くのがダメなのかもしれない。二時間ほど悩む。同じフロアを二時間もウロウロしていると、店員からあの人はなんだか二時間もウロウロしているな、と思われてしまうのではないかと不安になってしまう。不安と疲れからかまったく意味不明なものを買ってしまい、また買ったものが大きかったせいで、帰りの電車はとても惨めな気持ちになった。

 


その日

 


近松秋江『黒髪』は、遊女に思いを寄せる〈私〉の話。楽しい場面はあっても描かれない。一緒にご飯を食べることさえ叶わず、かわいそう。好きな人と一緒にご飯を食べることは大事なことだ。


〈私〉が思いを寄せる女の言動は、〈私〉のことを好いてはいないのだろうな、ということはわかるものの変で読んでいる最中は嫌な感じがしたのだけど、あとあと思い返してみると、相手のことがわからないという感じだけはわかると思う。

 


知り合いのこと。恋をしているという。
相手のことがよくわかるという。こんなにもよくわかるなんてとても素晴らしいことなのだとか。わたしもわりあい他人のことをよくわかる気になるものの、なんだかわかってしまうなんて相手に悪い気がして、考えをやめてしまう。たいてい、わたしが他人のことを「わかる」と思うとき、ある面では当たっているし、ある面では当たっていないという感じで、どうでもいいことなのだ。逆に、他人に対して、どうしてこの人はこんなにわたしのことが分かるのだろう、という気分になることもあるけど、それはどういうことか。
 

読書日記じゃない日記

その日

 

昨晩は台風が近づいていて、風の音がうるさく、眠れなかった。職場へ行くと、木が折れ、倉庫がひっくり返っていた。そのために一日を費やす。
『現代詩文庫44 三木卓詩集』、ミルン『クマのプーさん』を少しづつ読む。


先日、犬の散歩をしながら、チャットモンチーの「耳鳴り」を聴いていた。たぶん高校一年生のときに出たアルバムでよく聴いていた。私の周りに聴いている人はあんまりいなかった。クラスメイトに「どんな音楽きくの」と聞かれて「東京ハチミツオーケストラ」が好きだよと答えると「東京スカパラダイスオーケストラじゃないくて?」と返されたことを覚えている。


私に尋ねてきた男はいけすかないやつだったのでよく覚えている。その男は、村上春樹が好きで、童貞を小馬鹿にし、映画監督になりたがっていた感じの悪い気取った男で、大学を卒業したころに映画方面は挫折したらしいと聞き、いい気味だと思ったけれど、それはちょっとひどいような気もする。嫉妬心もあったのかもしれない。


どんな音楽をきくの、という会話ではふつうミュージシャンの名前を言うべきで曲名は言わないだろうから、きっと15歳の私はいつもこんな的の外れた返答をしていたために友達が出来なかったのだとも今にして思う。


もちろん、人気のあるバンドだったので、学校内に聴いている人はいて、たまに「良いよね」という声やスピーカーから小さくメロディが聴こえたりした。「生命力」以降はもっと増えた。私は人に話しかけたり出来ない人だったので、ただ「そうかあの人たちも好きなんだ」と思うだけだった。学校内にはチャットモンチ―が好きな人が何人もいて自分だけ素晴らしさを共有できていないような気分になった。ライブに行ったりもしなかった。


大学生になると、クラスにチャットモンチ―が好きな人がいた。ライブにもよく行ってるよと言っていた。ボーカルの人をえっちゃんと言っていた。たしかに雑誌やネットにはそういう風に書かれていた。私はボーカルの人と言っていたと思う。
メンバーが減ってからのアルバムはあんまり聴かなかったと思う。特に理由はない。昔は、最初のころの方が暗い感じあって暗い感じが好きだったから、と思っていたけど、はたしてどうか。


歩きながら、いまだに「恋愛スピリッツ」の意味がいまいちわからないことにびっくりしたのだった。チャットモンチ―のうちで一番好きな曲のうちの一つだけど、正直わからないような気もする。そのことを日記に書こうと思ったところ、学生時代のよけいなことを思い出したりして暗い気持ちになった。そういう意味では私にとってチャットモンチ―は青春と結びついている気がした。
 

読書日記

09/26

 

仕事が多い。うんざり。雨が降っていた。
仕事が多くて、うんざり、という話を電話ですると、電話相手の友達は凄いブラック企業に勤めていてもっとうんざりするような事をさせられているのだという。


冬川智子のマンガ『水曜日』を読む。

女子高生の日常を描いたマンガ。主人公は、高校デビューを狙って意気込んでいたのだけど、なんだか上手くいかない。本人が「おしゃれ組」と名付けた、いわゆるスクールカースト上部層の人たちの楽しそうなさまを羨ましがったり、自分と同じレベルだと思っていた友人に次々と彼氏が出来て悶々とするようすがおもしろおかしい感じに描かれている。


主人公はB軍だと書かれている。A軍というのは「おしゃれ組」のことで、B軍はそれよりも下のことだ。とうぜん、もっと下もいる。「里美ちゃん」というクラスメイトが出てくる。主人公は彼女のことを自分よりも下だと思っている。鼻毛が出ていて身なりも気をつかっていないようにみえる。


鬱屈とした青春はキラキラした人たちに妬みを抱いたりしがちだけど、後々振り返ってみると、劣等感というか自分よりも「上」だと思っている人たちへの負の感情はしんみりした笑い話にもなる。ところが、自意識過剰ではしこい奴は、まさか自分はこいつより上だろう、という「下」の存在も認めているように思う。


『水曜日』で「里美ちゃん」が登場人物として居場所を得られるのは、処女ではないからだ。主人公は自分がまだ性体験がないことを気にしていて、「里美ちゃん」から経験があることを告げられた主人公は「里美ちゃん」のことを見下していたことに自覚しつつも「おしゃれ組」と同じように注意を向けるようになる。


「里美ちゃん」はB軍とは別の友達がいる場面も描かれるのだけど、別の友達たちはほとんど登場しない。主人公は、「里美ちゃん」とその友達たちのなかでは「里美ちゃん」があか抜けていることに気づくので、主人公のなかでは「里美ちゃん」よりもさらに下ということになるのだろう。だからか、特別注意を向けられることもなく、出番もない。


私はどの辺だろうか、と思う。なんとなく主人公に共感して、すごくわかるような気になってよんでいたけれど、はたしてどうか。
たしかに学生生活において、こいつよりはマシだろうなという目を向けていた奴らが何人かいたように思う。


もし学生時代の自分が惨めだったり、ダサかったりイケてなかったり気持ち悪かったりしたのはいいとしても、そのくせ自分に向けられたなめきった視線を別の人に向けていたということ、つまり嫌な奴だったのだとしたらすごくつらいことだ。せめて、私が見下していた彼も私を見下していてくれていたらまだ救いがあるんじゃなかろうか、と思ったけど、どうだろうか。


ちっとも友達がいないのはやっぱり嫌なやつだったせいなのだろうかと思った。もっともそのほうが救われるような気もする。自分の悪い行いのために悪い結果がもたらせれてしまったのなら納得もできるだろうけど、たまたま運が悪かったために今夜惨めな気持ちでいるのだとしたら、きっとかなしい。

 

 

水曜日 (IKKI COMIX)

水曜日 (IKKI COMIX)

 

 



 

 


 

読書日記

09/20

 

雨が降る。気圧が低いのだと思う。
体調が悪いような気がする。基本的にいつも仕事に行く前は体調が悪い気もするけど、気圧は引くようだから気圧のせいにする。
自分を責めて憂鬱な気分になるのも辛いので、なにかのせいにしたいことは多いのだけど、あんまり人のせい世の中のせいにしているとそれはそれで気が沈んでしまう。その点、気圧というのはとても便利だと思う。気圧に感情や姿形がなくてよかったと思う。


とはいえ、仕事が終わればわりあい元気で、小谷野敦久米正雄伝 微苦笑の人』を途中まで読む。
伝記で、文学青年が喜びそうな批評は書いていないのだけど、著者自身のことがときどき書かれる。
漱石が死んだときの様子について、

 


漱石の死は悲しい。だが、酔いすぎてしまった。久米は、二十五歳になったばかりであった。
私は、同じように、二十五歳になったばかりの正月三日、大学院の教授である芳賀徹先生の自宅で新年会に参加した。芳賀先生は、その三年前に、漱石の語「絵画の領分」を表題とする分厚い著書で、大佛次郎賞を受賞していた。前年の、入学時のガイダンスには、芳賀先生の友人として、詩人の大岡信が来ていた。その頃の研究室はひときわ華やかで、年若な先輩たちが次々と著書を刊行していた。私は、その華やかさに酔った。酔って、久米と同じようなことをした。だから、のちに『破船』を読んだ時、久米のこの時の心理を理解できるのは、自分しかいないくらいに思い込んだのである。


と書く。「破船」とは、久米の著作で、漱石の死後、漱石の娘筆子と結婚しようと思うのだけど、その母を怒らせてしまい、けっきょく友人の松岡譲に取られてしまうという出来事を小説にしたもの。
作中でこうした著者の個人的なことを書いた感想はあんまり出てこないけど良い。あんまり出てこないから良いのかもしれない。
華やかさに酔ってしまうというのは微妙な感情だと思う。芋くさいようでちょっと恥ずかしいようにも思える。その微妙なことをすくい取っている。
他に、

 


久米の通俗小説を全部読んだ人というのは、恐らく誰ひとりいないだろうから、私が最初になるはずである。それは、苦痛がマゾヒスティックな快楽に変わるのではないかという錯覚を起こさせる態の事業だが、書く方もさぞ辛かったろうと思う。その苦痛の中から、「私小説と心境小説」や「純文学余儀説」が現れたのだということは、理解しなければならない。


というのも、良い。著者は私小説も書いている。そして久米の私小説以外は高級な通俗小説だという考えに共感を覚えているようなことを別の本でたびたび書いている。
全部読むというのは大変なことだ。大変なことをしないとわからないこともある。久米の論を久米のたくさんの著作を読んで、作者の気持ちを考えている。その気持ちに当然著者の気持ちも混ざってくる。全部読むという迫力も相まって感動的。