悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

わたしのためにあなたに書いてほしい文章のこと

ほんとうはあなたのためにわたしが書きたい文章のこと、と書きたいところだったのだけど、そこで言われるあなたはぽっかりと空いた穴だしけっきょくのところわたしでもあるので、ならいっそのこと、わたしのためにあなたに書いてほしい文章のこと、とでもしてみたらどうだろう、と思った次第です。 

 

(と以上は与太でして、本題はぜひわたしのためにあなたに文章を書いてほしいということで、あまり耳にしない種類のお願いのような気もしますから、だとすれば不遜であるとか傲慢であるということもないでしょうと、無知をよそおいつつ大真面目に言ってみたい気もします。と、この段落はカッコに入れるとしまして、以下与太の続きです。) 


分量のこと。

400字くらいが良いと思います。もっと少なくてもいいはずです。行きと帰りの電車で一度ずつ入念に読むことが出来ます。なんと寝る前にも読むことが出来ます。 


形式のこと。

わたしたちが文章を大事にするためにはタイトルが必要かもしれません。400字すべてを暗記するには多少の根気がいりますがタイトルであれば暗記できる可能性は高くります。タイトルは文章全体のイメージとなります。そしてキャンディーみたいに、厳しい峠を踏破しなくてはならないときにこっそりと口にふくんで楽しむことができます。 


内容のこと。

あまり難しいことだと理解できなくなってしまい、それは申し訳ないことなので、ささやかな日常のことなどが良いのではないかと思います。例えばアイロンのかけ方とか。ただ、400字では根拠を示すことが難しいように思いますので、全日本アイロンのかけ方協議会(というものがあるのかどうか知りませんが)が推奨する正しいアイロンかけ方についての文章よりはあなたのアイロンのかけ方のようなものがちょうどいいように思います。日々のアイロンがけについて書くことは、昨日もおとといも同じようにアイロンがけをしたのであって、なんでそんな風にアイロンをかけるの、という質問よりも前にこうやってるんだからこうなのだ、という楽観的な良さがあるように思います。 
 

暖かい公園で本など読みたい

市街戦の跡地を猫が歩いていた。わたしはそのことを人から聞かされて、市街戦の跡地とはどのようなところだろうかと思った。動画で見たことのあるヨーロッパの景色や幕末の様子が浮かんだ。それらの場所を歩く猫の姿はふさわしいようにもふさわしくないようにも描くことができた。 


酔っぱらった人たちが南池袋公園にふらふらと近寄っていく。すでに門は閉まっていた。しばらく話し合ったり門に手をかけたりしてやがて立ち去った。わたしは窓を開けてその光景を眺めていた。夜の風が部屋のなかまで吹いた。
「日本語が不自由なんですよ、わたし」とわたしに跡地の猫の話をした人がいった。とくに不自由だとは感じなかった。頻繁に海外旅行に行っていて日本語を忘れてしまうとかそういうことなのだと思った。市街戦の跡地がどうのこうのというのも海外に行ったという話からはじまったのではなかったか。窓をしめると、日本語を忘れてしまうほど海外に言っているのだと人に語る人にふさわしいような濃い香りが部屋に漂っていた。


ふと夜の南池袋公園に猫は入れるのだろうかと思った。
東池袋公園は素晴らしい公園だ。夏に出たBRUTUSの公園特集にそのように書かれている。

〈駅前から続くグリーン大通りを抜け、公園に足を踏み入れると、そこだけは、ぽっかり、空が広がっている。空の下には、青々とした芝生の広場。傍らには大きなカフェもある。〉


〈目指したのは、都市のリビング。来園者が、思い思いにくつろげる場所で、芝生とカフェがその中心だ。〉


写真も掲載されている。穏やかな午後とでも呼べそうな光につつまれてたくさんの人が素敵なひとときを過ごしている。
わたしは横になりうつぶせでぱらぱらとページをめくった。その人が視界に入らないと良いと思い、ページに顔を近づけた。その人はときおりわたしの後ろからページを覗きこんだりしたと思う。香水の匂いが近づくことでその人がうろうろしていることを感じた。


別のページには南池袋公園の他にもさまざまな著名人のお気にの公園が取り上げれていた。 
お気にいりの公園は家から近い公園が良い。酔っぱらって悲しい夜にふらふら歩いていける公園が良い公園なのだから家から近い方がいいのだ。
だからこそ著名人が井之頭公園みたいな有名な公園をお気に入りというか身近な公園にあげていることをうらやましく思った。
家からちょっと足をのばしてどこかの公園へ行ってみても部外者という気がした。 
非日常としての公園というのもあるのだろうけど、やっぱり公園は日常のものだ。


日常の公園に集まっている人たちは楽しそうには見えなくても、穏やかな陽に照らされている。とても羨ましい。わたしもふれ合ってぐずぐずにとけて混ざってしまいたい。草や土、木などはあまり境界について厳密ではなくみえる。だから簡単に人々は混ざってしまうだろう。
混ざり合い滲み出て残念にもアスファルトの上にたどり着いたしまったものはへばりつきまったく見ず知らずのわたしになる。ばらばらのものを形だけ縫い合わせてももとのものとは別のものである。手や足や頭など誰が偉いということもなく、お互いが人見知りで上手に話すこともできないから、仕方なくいつまでもアスファルトの上から動くことは出来ない。たとえ穏やかな陽であってもアスファルトのうえでは耐えがたい暑さだ。アスファルトはわたしを容易には受け入れずただただわたしがわたしであることを苦しめる。


やがて夜がきて冷んやりとした。余熱も空気へ放たれていくのを感じることができた。
そしてアスファルトにへばりついたその上をネズミが通るだろう。ネズミが暗いところから現れ、月明かりに驚いたところをすかさず猫が飛びついた市街戦跡地の夜。
重ねた年月を覆い隠す濃い香りが耳をなでる。戦場はここだよ、とその人は言った。まったく比喩ではなくほんとうにそう思っているような口ぶりだった。わたしはとくに聞き返したりしなかった。もしかするとそのような理屈はあるのかもしれない。その人の言ったとおりなのだとして跡地とはどういうことなのだろうかと思ったけれどそれ以上聞くになれなかったし、ひとりになりたかった。


南池袋公園の前に立つとたしかに公園は塀によって閉ざされていた。
池袋の路上はなんだかとても寂しくて、もしかしたら今夜、門扉が閉ざされたすべての公園こそが外であるのかもしれないなどと思った。遠くの方から物を叩くような、いや物の内側から外側へと向かって叩くような、一定のリズム、音楽が聞こえてくる気がした。夜が好きな多くの人たちは、肌に寄せるビロードの闇の感覚を知っているのだろう。わたしは夜がこわい。公園内のコンクリートでできた幅の広い階段に猫の目がみえた。光っていた。


 

ぼくたちの日々とか

冗談ばかりで 楽しすぎて
体の奥まで 甘えたりして
ありえない夢を見て 日々が過ぎる

「ぼくたちの日々」/スガシカオ 

 

ぼくらの日々

そのころ、ぼく自身は最悪の気分だったのだけど、ぼくらとしては気分の良い日が続いていて、本を読んだり音楽をきいたり、ときどき散歩をしたりして過ごしていた。
信念などなく、ぼくらは増えたり減ったりすることもあったけど、それはその数がその時々で一番ちょうどいい数だということのようだった。 


渋谷

渋谷の駅から少し歩いたところにある古いマンションで、においが壁についてしまうといけないからといって、狭いキッチンの換気扇の下に肩をぶつけあいタバコを吸ったりもした。 


グリコ

古いマンションの駐車場や周辺には立派なエンブレムを誇示した車がよくとまっていたのでぼくらは場違いな気持ちになることもあった。それでも、夜になると若い男女がじゃんけんをして、パーで勝ったらパイナップルで六歩、チョキならチョコレイトで六歩、グーだとグリコで三歩進むという遊びをしてきゃっきゃしているのがベランダから見えた。 
「グリコっていうんだよ」とぼくらは若い男女が楽しんでいた遊びについて話しあった。 
グリコなんて遊びの存在はすっかり忘れていて、いとこの子どもと遊んだときにグリコのやり方を教えてあげたのだけど、いとこの子どもは小学生になったというのにルールを守って遊ぶということにまったく無頓着で、「チヨコレイト」と言っているあいだに20メートルくらい短い足をばたばたさせて移動してしまう。もちろん六歩で20メートルを歩くわけではない。「チヨコレイト」と言っている間は移動しても良いと理解したのかもしれない。呪文を口にする間だけは無敵でいられるのだ。無敵ならいくらだって遠くへ行ける。


思い出

ぼくらはいろんなことを忘れてしまい、ときおり少しだけ思い出す。ぼくらにとって思い出はひところ目の前を横切る影だ。
それは大事に掴んで離さずじりじりと体力を消耗させつつ引き寄せないかぎりすぐに姿を消してしまうので、ひ弱なぼくらにはたとえ力を合わせたとしてもしっかりと受けとめることは難しかった。 
夏の川辺で、ぼくらは座ったり立ったりしながら行き交う影を見つめたいと思った。 


夏の川辺

ゆるやかにそしてなんとなく、気がつけば良い感じの日々は過ぎていき、ぼくらなどと称することも恥ずかしく感じてしまうようになっていった。 
彼らはいまではすっかり上手に一人称なきぶんで、自然主義的なセックスにうつつを抜かしては、止まらんロマンがたまらんなどと言って過ごしている。 
夏の川辺を見いだすことが出来なかったことはとても残念に思えた。けれど、夏の川辺とはそもそもなんなのだろうか。 
おだやかで遮蔽物のない平地の川辺は、夏になるととても暑い。どこにも影など見当たらず石がきらきら光っている。川面も日差しをうけて輝いている。真っ白だ。 
 

読書日記

2018/12/06

休み。と思いきや半日仕事。


千野帽子『読まず嫌い』をすこし読む。
タイトルからして、読んでいない本についている話なのかと思った。わたしは本が好きな気でいるものの、実はあんまり読んでいないのでそのことを慰めてくれる本なんじゃないかと思ったけれど違った。
たしかに「はじめに」ではいろんな本の嫌なところがあげられていて、〈青春小説の主題なんてだいたい「他人に理解されないこと」だ。それが文学になってみんなに読まれている。ということは、お前ら主人公どもの悩みなんてみんなに理解されてるじゃないか。そういう甘え上手なヤツがモテるんだよ結局。〉という一節なんかは嬉しくなっちゃう。
とはいえ、それ以降の章では読んだという話が書いてある。がっかりした気分になったのだけど読み進めると面白い。かつての名作とか、作品が収録される形態とか広い範囲の話もする。放りださないで良かった。
読まず嫌いというのは食わず嫌いみたいなことだ。読んだか読んでいないかで言えば読んでいない状態。著者は読まず嫌いだった本を読んだら好きになる。読まず嫌いにたいして読んだ好きという感じ。本を読む前と読んだあとで世の中の見え方が変わるとか読んだわたし自身が変わるというほど大げさなことではないだろうけど、読んでいない状態では嫌いだったものが読んだら好きになるので、嫌いから好きにかわっていてとても良い感じ。しかし、好きばかりならハッピーというわけでもないらしく、息が詰まるというか退屈したりする。そこで名作。名作は名作であるということで読むきっかけになるという。

 


2018/12/09

二日間日記書かず。
大島一雄『人はなぜ日記を書くのか』(芳賀書店)の「Ⅰ 日記とは何か」は〈ある文章が日記でありうるためには〈日付け〉が必要とされる。〉とはじまる。(日記というものを日付と公開性非公開性という観点から論じていく。)
日付が記されるということは、記された日付に文章が書かれたということを必ずしも意味しない。文章を書いた日付ではなく、その日付の出来事について後から書かれた場合もあるからだ。
文章はさもひとつながりのものとして書かれたような姿でわたしのまえにいるわけだけど、実際はそんなことばかりではない。書かれた対象が長い間頭のなかで書かれないままぼんやりとしたまま浮かんでいる状態を考えにいれなくても、書いたものは書き直され書き始めたときとはまったく別のものとなることはある。わたしの書いた文章があなたに読まれるまでに、書き間違いを正すのはわたしだけとは限らないのだし。
わたしにとって日記の文章はたとえ記された日付について後日(たとえば翌朝)書かれたのだとしても、書き直されたり書き加えられたり書き減らされたりする文章とはべつのものに思える。装いにすぎないのだとしても、〈作品〉ではないと思ってしまうのはそのようなものであると夢想するときであって、かすれたり濃くなったりする筆致を思い浮かべてしまいます。
土曜日には、原美術館へリー・キットの展示を観に行った。帰りに新宿で『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。
上の文章に筆致などと馴染みのないことばが使われているのは、日曜日にパスカルキニャール『ローマのテラス』を読んだせいでしょうか。17世紀の版画家の話で47章の短い文章で構成されている。日曜日にはほかに千野帽子『読まず嫌い』も読む。


2018/12/10

とても寒い一日だった。これ以上寒くなるなんて信じられない。シベリアはもっと寒い。
何冊かの本をちろちろ読む。ちかごろ長谷川四郎をひととり読みたいと思っていて、全集の一巻を「シベリア物語」から読み始めてみたのだけど、つづくかどうか。他にも興味がいろいろな方向にむいている。ただ長谷川四郎の文章はやっぱり好きで、今日はシルカを読んだのだけど〈ぼくら〉という言い方なんてささやかなんだけど良い感じ。

読書日記

2018-11-29

池袋の三省堂のアウトレットコーナーで草森紳一『本の読み方』を購入。同コーナーではじめて本を買ったと思う。

文庫コーナーにはリブロについての文庫本が平積みされていた。わたしの知っているリブロはもう別に求心力のあるころではなかったと思う。一階に河出文庫を中心に思想系の本が並んでいる一角があり、ふうんと思った。大島渚の『新宿泥棒日記』を観に行ったとき、上映前だか後だかに宮沢章夫トークがあって、新宿泥棒日記が撮られた当時の新宿紀伊国屋はホントにすごくて少しまえの池袋リブロや青山ブックセンターよりもっとすごかったパワーがあったというようなことを話していたのだけど、どちらもあまりぴんとこなかった。ところで、『新宿泥棒日記』の横尾忠則はオードリー若林の顔はよく似ている。


『本の読み方』には本を読んでいる人の写真が載っている。
人が本を読んでいる風景というのは良い。憧れる。
本を読む趣味を共有する友達がいないからかもしれない。
思わず話しかけたくなっちゃう。もちろん、そんなことしないけど。
記憶を探ってみても、本を読んでいる人の姿はなかなか思い当たらない。以前ブログに2回くらい身の廻りにいた読者家について書いたけれども、本当に少ない。


ネットで知り合った人とはじめて実際に会ったときのこと。本を読みながら待っているね、と言われた。目印としての本ということらしい。黒澤明の映画にもなった『デルスウ・ウザーラ』で、なぜかといえば、わたしが訳者である長谷川四郎が好きだったからだ。待ち合わせ場所に行ってみると、たしかに『デルスウ・ウザーラ』を読んでいる人がいた。読んでいるというか、じっさいはちっとも読んでいるようすではなかった。タイトルが見えやすいよう配慮してか本はめいっぱいに開かれ、地面と垂直になるようにたてて持たれている。顔のまえでちょうど顔だけ隠れるような感じの持ち方。読んでいる、というより表紙をこちらに向けて掲げているというほうがしっくりくる。
もちろんその人は『デルスウ・ウザーラ』を読んでなんかいなかった。観光バスのガイドさんが駅前で持っている旗のように『デルスウ・ウザーラ』を掲げていたのだ。こういう本の使い方もあるのか、とは思わなかった。
たぶん今だに読んじゃいないだろうし、わたしも読んだことがない。
わたしには読書のある風景はあまりなくて、せいぜいこのような本のある風景といった感じなのだけど、だったらいっそのこと妄想で理想的な読書のある風景を思い浮かべてみるのもいいかもしれない。
『現代詩文庫4 北川透詩集』(思潮社)を少し読む。中川成美「何がセクシャリティに起こったか?」(『語りかける記憶 文学とジェンダースタディーズ』小沢書店)も読む。

 


2018/12/02

昨日と一昨日は日記を書かなかった。
昨日は読書会。次回は再来週。読書会自体は軌道に乗ってきた感じがするので、良かった。
本日は休み。
ボクシングの試合をテレビで観る。本を読む。
リディア・デイヴィスサミュエル・ジョンソンは怒っている』、小谷野敦「潤一郎の片思い」を読む。


サミュエル・ジョンソンは怒っている』は短い文章がたくさん収録されている不思議なあじわいの小説。断片形式という感じ。
いろんな意味を勘ぐりたくなるほんの一行のものもあれば、掌編のようなものもある。日常でのささやかな心のうつろいみたいなものが描かれていたりもする。「不貞」という一編は女が夫以外の男を空想することについて書かれた2ページほどのごく短い文章なのだけど、時間のうつろいがあってそのなかで変化していく女の男との関わりかたがとてもよい。「〈古女房〉と〈仏頂面〉」という一編。これもとても好き。古女房と仏頂面。二人の噛み合っているのかいないのかよくわからない生活が、日常のささやかなできごとと二人がそれに対して抱く感想から描かれるのだけど、愛らしい。

〈古女房〉には〈古女房〉の気に入りの肘掛け椅子があり、〈仏頂面〉には〈仏頂面〉の気に入りの肘掛け椅子がある。〈仏頂面〉が家にいないと〈古女房〉はたまに彼の椅子に座り、彼が読んでいるものを手に取って読んでみる。

全体的にひとごとっぽいというか視点人物との距離感がとても好み。登場人物の内面も描かれるのだけどそれはとてもさっぱりとしていて、ユーモアを感じる。
「潤一郎の片思い」もさっぱりとした感じで書かれている。谷崎潤一郎夏目漱石にたいして抱いていた感情を、後年谷崎が大江健三郎から向けられた文章を読み、自分もこうなふうだったんだろうか、と理解する話でとても短いのだけど、あんまりにもさっぱり書かれているので逆にあんまりにもたくさんのものを行間から感じてしまい、とても好き。

 


2018/12/03

曇っていた。少し雨が降っていたかもしれない。一日の天気といってもずいぶんいい加減なものだな、と思う。雨が降った時間もあれば曇っていた時間もあるし、晴れている時間もあったりする日もあるだろう。
〈平成30年12月3日16時46分 熊谷地方気象台発表〉の天気概況によると〈埼玉県は、曇りで雨の降っている所があります。〉となるらしい。
曇っていたところにいた人は曇っていたと思うし、雨が降っていたところにいる人は雨が降っていたと思うのだ。
その境目はあいまいで、◯市の人は曇りで△市の人は雨、というふうにはならない。だいいちその日の天気がどんなふうだったか、覚えている人はどれくらいいるのだろうか。
わたしがその日の天気を日記に記す。強く印象に残らない一日の天気を記したとして、限りないその他の強く印象に残らない一日との違いなどわからないはずだ。〈晴れ〉と記したその一日の日記を読み返すとき、読み返すたびに、読み返したときのわたしが抱く〈晴れ〉のイメージでもってその日の〈晴れ〉を思い浮かべる。

天気のことを書きたいけれど、書き方がさっぱりわからない。

桃色の雨が降ったりすれば、〈桃色の雨が降った〉と書くだろうし、きっととても有意義な日記になると思うのに。 

期待と退屈の読書日記

2018/11/18

1

ホテルニューオータニへ行く。もちろん縁のない場所なので新鮮。庭園もうろうろする。低木の刈り込みが角までピッシリ綺麗で、どのくらいの時間をかけるのだろう。松はむしりすぎなんじゃないだろうかなどと思ってしまったが、そういうものなのだろうか。もう少ししたらきっと紅葉が綺麗。
日曜日だったためか、結婚式をしている人たちがいて、大きい会場が外から見えたのだけど、100人くらいいそうな感じで、元気な人は元気なのだ。檸檬くらい置い帰ってもいいんじゃないかという気分。

2

文章を書くことは砂漠の行軍だろう。跳躍はありえない。それでも前に進んでいる。少なくとも、前に進んでいる気ではあるし、前に進むときの動きをしている自覚はある。

3

カルヴィーノレ・コスミコミケ』はQfwfq老人なる奇妙なホラ吹きの語りが楽しい短編集。「水に生きる叔父」は海から生物が陸にあがっていくなか、水のなかで生きていくことを貫く〈叔父さん〉について書かれたもの。

お叔父さんの意見によれば、水の外に現れている陸地というものは、限られた現象に過ぎないものなのだった。それは、現れたのとちょうど同じように、また姿を消してしまうかもしれないし、また、いずれにせよ、絶えざる変化ーー噴火、氷河、地震、褶曲、またさらに気候や植生の変動といったーーを蒙らずにはいられないものなのだった。しかも、そういったことのただ中でのわれわれの生活といえば、不断の変貌を余儀なくされることであろうし、そのさいには全住民の絶滅さえ可能であり、生き永らえることのできるものは、ただ自己の生存基盤をそんなふうに変えることのできるものだけということになり、つまりは、生きていることの楽しかった理由でさえも、完全に覆され、忘れ去られてしまうようになるだろう‥‥‥。

おかしな意見なのだけど、わかる気もする。わたしの遺伝子はもうすっかり水のなかの生活というものを忘れてしまっているとはいえ、陸の上での変化はめまぐるしいし危険がいっぱいなのはたしかだ。
引用から続けてQfwfq老人は以下のように語る。

わしら陸生まれの連中がそのなかで育てられて来た楽観論と、これはまた、まっこうから対立する未来図というわけで、わしは猛烈に抗議しながら、これに反論したさ。

〈楽観論〉で妙な納得を感じたというか、笑ってしまう。はるか大昔の楽観論者の末裔なのだわれわれは。たしかに、そうでなければわざわざ明日を向けていそいそ会社に行ったりしない。


2018/11/19

職場では暖房がかかっていた。寒くなってきた。寒いほうが空気が清潔な感じがするのはなぜだろう。湿気はまとわりつくものだから、乾燥する季節は湿度がない季節として空間を満たすものの不在を思い、隔たりに気づいてしまうのかもしれない。
大越愛子『フェミニズム入門』を読む。

 


2018/11/20

1

寒い季節になってきたのでどうかとも思うけど、内輪でわちゃわちゃしたい。
仲間内でしか通用しない秘密のことばを囁き合ってにやにやしたり、ありもしない最先端について嘯きたい。

2

ビリー・ザ・キッドの息子たちは車で走っていて猫や、たぬきが道端で死んでいたことに気づくとき、もしもあれが人だったらどうするだろうかと思う。

3

宇宙とは誰かが手をつけないで終わってしまったものの残骸なのではないか。

4

晴れていた。植木屋が産業道路の街路樹を剪定していた。銀杏の木は、葉っぱが落ちるまえにすべて切り落とすことになっているらしく、まだ黄色くならないうちに丸裸だ。菊地成孔の粋な夜電波で、cmの前口上?の「付け合わせポテトの大人の食べ方編」で、ある日突然大人になったと語る〈僕〉は〈明治通りを昼の一時に走る時、歩いている人一人一人の人生を思い描いてしまいハンドルから片手を離して涙を拭ったりしないようになった〉と言うのだけど、大人になったつもりでも片手を離して涙を拭ってしまうわたしは子どもなのかもしれない。

5

荒川洋治『心理』を読み終える。近頃はいい加減な読書でなんの感想もない。一回読んでほっぽり出す。あるいは図書館へ返却(わたしの短い人生で他人に誇れることがあるとすれば、図書館の返却期限を守ることだけだ)。人生、死ぬまでの暇つぶしなどと嘯くつもりはないけれど、永遠に退屈と期待の季節から抜け出せない幼稚なわたしたちとしては、コンビニのコーヒーよりも手軽に本を読みあさるのは、間違っていないのかもしれない。退屈、あるいはかなしみ。

 


2018/11/22

時間を無駄にしてしまったような気がした一日。
休みの前日は、明日は休みだから明日やればいいやという気分で、いちばん素敵な休み前の夜をなにもせずに過ごしてしまいユーウツな気分になる。
言ってしまえばぜんぶ無駄なのだから、気に病むことないよとどこかここからは見えない月の影から誰か言ってやしないだろうかと窓を開けて耳をすませてみるものの、もしホントにそんな声が聞こえたらどうしようと不安になる。そのような不安はいつもわりと近いところにいる。
あまり多くを求めず、本など少し読んで寝る。

読書日記

2018/11/12

仕事。
起きるのがおっくう。週の始めからこんなんでいいのか。週の始めだからなのか。
家に帰ってきてもやる気がでない。少しだけ本を読む。
ブログは、まず日記を書いて何日分か溜まったら人にみせられないところ削ったりして公開しているのだけど、近頃はカッコ書きで言い訳めいたことを書いていて気持ちが悪い。過去の、というか書かれたわたしと距離を取りたいと思ってしたことなのだけど自己注釈だし、自己注釈ほどひどいものはないのでは、という気がする。

 


2018/11/13

仕事。


2018/11/14

中学生のころ、夏休みの宿題で作文があった。読書感想文か夏休みの感想文か、どちらかを選ぶというふうになっていた。先生が悪い例として、「いまわたしは夏休みの感想文を書こうと思っているが、書くことがない」式のものをあげていたことをふと思い出す。良いか悪いかは別として書くことがないような気がしていると(実際に書くに値することが当人に起こったのかどうかはまた別問題として)「書くこと」そのものについて書いてしまいがちというのはあるかもしれないと思う。というか、日記に書くことがないのでそうなっている。


一日をぼんやり過ごしてしまい鈍感になっているせいだろうか。


よくよく考えてみると、本を読むことだって同じかもしれない。ある一冊の本を読んでも、ぼんやり読んでしまうとその本について書こうと思っても書くことがないような気がしてくる。すると、本を読むことについてや、空疎な文学論みたいなことばかり思いついてしまうのだろう。
これは変な話で、それなら別に読まなければいいのだし、わざわざ本について何か書く必要はないのだ。
と、書いていて自分で自分のことを頭が悪いと思うのはこういうときだなあと思う。
考えがホップステップジャンプの容量ですぐさま「どうせ地球も滅びるし」みたいなところに行きついてしまうのだ。
どうせ地球も滅びるのはそうなのだとしても、そのことを理解したところでなにも解決しないのだから、ものを考えようとするのならその手前にどこか踏みとどまるべきポイントがあるのだろう。
しかし、それにしたって、スリーステップで訪れる地球滅亡のその時はいつだって美しいイメージだ。


2018/11/15

何冊かの本をちょこちょこ少しずつ読む。評論や入門書の類を読んでいると、いまさらなにを読んでいるのだろうかと鬱屈とした気分になるので、カルヴィーノレ・コスミコミケ』を読み始めるがあまりのれず。
とはいえホラ話の面白さというのはある。地球に接近した月に軽やかに飛び移る男の描写などはたのしい。
暗くなってくると、もう本など読む気になれず、ちょうどアニメ『電脳コイル』がプライムビデオで観れるようになっていたので、何話か観る。
すごく久しぶりに観たのだけど、わたしの好きな街のイメージはほとんどこのアニメなんだなあとあらためて思う。


2018/11/16

仕事。晴れ。とても晴れていた。昼間は暖かくて、上司が、眠たくなるねと言った。わたしはどこかへ行ってしまいたくなる陽気だと思った。月並みとはいえ、思ったのだから仕方ない。逃亡にふさわしいのは雨より晴れだと思う。
本はちっとも読まない。荒川洋治『心理」を少しだけ読む。


2018/11/17

〈いつかなんてずっとこない 今度だって結局こない こんな風にちゃんと気にしてることなどもう向こうには届くはずもない〉(疎遠/TOMOVSKY
あの人はいまなにをしているんだろうかと思う。
失くしてしまったと思えるほど豊かな人間関係なんて築いたことはないけれど、それにしたって〈今どうしてる? 気になるぜ〉(street dream)。
あの人はきっといまごろ楽しく暮らしているんだろうな、と思えるような人はまあいいのだけど(よくないのだけど)、あんなんで大丈夫なんだろうか、と心配になってしまうような人もいて(余計なおせはとはいえ)、こちらに心配だけを残してどこかへ行ってしまったことを思うと頭にくる(わたし自身になのか、相手になのか)。
カルヴィーノレ・コスミコミケ』をすこし読む。