悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

3/14

休みだったので、あれこれやろうと考えていたのになにもせず。チェーホフを読もうと思っていたけれど読まず。ちょろちょろオースティンのエマを読み返したりしていた。
前々回の更新でミス・ベイツのことをミス・ベイズと書いていたことに気づく。良き読者には記憶力があると書いたのはナボコフだ。「良き読者と良き作家」のなかでナボコフは有名な〈まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。〉という名言を書いている。

〈二度、三度、四度と読み直して、初めてある意味では、絵にたいするように書物にたいせるのである〉だとか。その日に読んだ本の登場人物の名前を書き間違えるなんて、記憶力がないのだと悲しい気持ちになったけど、なんのことはなくて、ただただわたしはオースティンのエマを読んじゃいなかったのだ。

 

本日は(も?)たいして本を読まなかった。仕事のせい。家で電話を待っていたのだけどちっともこずかけても出ず、たいした要でもないのにそれだけのことで気を揉んで何も手につかず。本当に気が小さくて嫌になる。
結局夜には電話ができたものの、日中を気を揉んで過ごしてしまい後悔。なにかすっきりするものが読みたくなって途中まで読んでいた漫画『キングダム』を読む。大暴れする主人公を読めば気分も晴れるだろうと思ったのに、主人公たちがじわじわ追い詰められる場面で、すっきりするところまで読みすすめたら結局kindleで6巻分も買ってしまい後悔。kindleで続きものの漫画を読むとぽんぽん買ってしまうので危険であるということを学ぶ。

笙野頼子「極楽」を読んで寝ようと思ったら、なかなか恐ろしい話で興奮してしまい寝れず後悔。

3/13

 

仕事終わりで、立川へ行く。Sと会う。
Sは来るのが遅くなると言っていたのに、わたしより先に到着していた。
Sを待っている間に本屋でも行こうかと思っていたけど、Sはすでに着いていたので本屋に行く理由はなくなったにもかかわらずなぜかSとともに有隣堂の方へ向かい、途中で本屋へ行く理由がすでになくなっていることに気づいたのは良かったものの結局駅と有隣堂の間にあるブックオフに入って無駄な出費をする。

同じ作家でもブックオフで見かける本と見かけない本というのがある。例えば枡野浩一の本だと『ショートソング』を一番見かける。次が『淋しいのはおまえだけじゃな』。『ショートソング』は著者の本の中で一番売れたものだそうだから、納得。大岡昇平は意外と『事件』が多い。

阿部昭『短編小説礼讃』(岩波新書)のチェーホフのところを読んでいたら読みたくなってきた。〈生涯に書いた小説は約五百編(筆名によるものが四百編以上)と言われる〉らしいのでとうぜん読んでいないもののほうが多いのだけど、ここで取り上げられているようなものはみな読んでいると思う。筋を読むとなんとなく浮かぶ。全7章のこの本の第1章に〈人物の名前とか場面場面の細部とかは思い出せなくても、ああ、あの話か、とまるごと記憶によみがえる。そういうものが短編小説の魅力である、と読者の側からは定義できぞうである。読むことと同じくらい、読んだものの思い出も大切である。〉とあって、良い。

チェーホフの悲哀について著者は〈それは涙のない、乾いた悲しみ、それゆえに泣くことでも慰められない、人の心を時間をかけて噛みさいなむ悲しみである。〉という。〈時間をかけて〉という部分に惹かれる。たぶん、話の脈絡に関係はなくて、ちかごろ時間がかかるということについて考えたりするからかと思う。瞬間よりも持続することに惹かれているようだ。細く長く続けること。そのために必要なことはよく寝ることで、つまりは休息なのだ。わたしたちは疲れている。

3/12

どこかへ行ってしまいたいなどと口ではいっても結局どこへもいかないのはわかりきったことで、わたしはいつもわたしをあまり信用していないものだからわたしもわたしに期待されていないことをすっかり気にしなくなってしまいあることないこと言ってしまうのはまあわたしのせいとも言えるしわたしのもせいとも言える。

少し前に、家出したという人の話をきいた。家出した人は23歳で、その年齢ではもう家出とは言えないのではないだろうかと思ったりしたのだけどその人の家族からしてみると失踪でも逃走でも出奔でもなくたしかに家出だったようなのだ。なんというか23歳という年齢にも関わらずまるで中学生がいっとき姿をくらましてしまったかのように家出と呼ばれてしまう状況がその人を家出せしめたのではないだろうかという気がして、暗澹とした気持ちになったことを思い出す。最近ではその人もいくらか気分が上向きになって家族とも上手くやっているそうなので遅すぎた家出にも意味はあったのかもしれない。

暗澹とした気持ちになったことを思い出したのは暗澹とした気持ちだったからかもしれない。
暗澹とした気持ちになったことは、たぶんそうなのだけど、その日の天気を思い返したときに曇っていたり晴れていたり曇っているのか晴れているのか素人目には判断がつきかねる日というのがあって、同じように前日から引き続き暖かさに良い気分になったりもしていたのも事実だ。

 

本日は、オースティンのエマの下巻を引き続き途中まで読んで、なんだか変わりつつあるエマにちょっと愛着が湧いてきた。変わるといっても、価値観が変わるというよりかは人に対する評価が変化するという感じ。

おしゃべり、噂、憶測。見栄や嫉妬。
それにしても、みんなホントによく喋る。最近レイモンド・カーヴァーをよく読んでいるためか疲れ知らずのおしゃべりに圧倒される。ウッドハウス氏や、ミス・ベイズのおしゃべりはほとんどおんなじ話しかしない。物語の進行が遅くなるのはウッドハウス氏のせいにすら思える。「風邪をひいてしまうよ」と何度も何度もみんなを心配するのだけど、そのおしゃべりは恋愛小説というよりは結婚小説と言いたくなるようなオースティンの小説内で終わりにむかって軽快に進んでいく中、結婚反対をつねづね口にするウッドハウス氏によるささやかな抵抗なんじゃないかと思うと、なんだかおかしい。

 

 

日記

3/11

最近は暖かい日が多くなってきて、春が来るんだなという気分が高まる。
暖かい日にわけもなく良い気分になってしまうのは、きっととても良いことで、昨年のちょうど今頃の日記にそのようなことが書いてあり、今年も同じようなことを思っている。その前の年その前の年と遡っていく。昔の日記を読み返すと、ぜんぜん自分が変わっていないことに驚いたりすごく遠く感じたりする。

いくつになっても暖かくて風も強くない午後にはどこかへ行ってしまいたくなったりもする。
「イン・トゥ・ザ・ワイルド」という映画がある。逃避行する映画で、恵まれた境遇に生まれ育った青年が家出してアラスカを目指す話。
一度しか観たことはないのだけど、青年がとても惨めで愚かだった記憶がある。
もう10年くらい前のことで、失踪はやめようという教訓としてこころに留まっている。
危ないのは吾妻ひでお失踪日記でこちらを読むとあんがいどうにかなるんじゃないなと思ったりする。
とは言っても毎日お風呂に入らないではいられないのだから失踪なり逃走なりどっちにしたって向いていないのだ。いや、そもそもお風呂に入ったり清潔なシャツを着たりするのも、よくよく考えてみればわたしがどこかへ行ってしまいたいと思うときに置き去りにしたいものと同類のものかもしれないと思ったりもする。

かもしれない、かもしれない、と妙な理屈をこねつつしだいしだいに失踪しない理由はないのだとなかば義務なのかなんなのか強制的な力によっていやいや荷物をまとめていやいや飛び出したもののいやいやくたばってしまうという物語はどうだろうかと浮かんだけど、理屈というのはあんがい人を動かすのには役に立たないような気もする。

本日はオースティンの「エマ」の下巻を少し読む。
上巻でのハリエットの結婚相手を探そうとするエマに、『虞美人草』に出て来る藤尾の母を思い出したりする。

布団に入ってから寝るまでのあいだに読む用の本を枕元に置いているのだけど、ここしばらく詩集だったのを読みかけだった『富士日記 上』になった。小説とくらべると日記は同じ散文でも時間の扱いが単調で、たぶんそれが日記の小説とは別にある魅力のひとつなのだと思うけど、そのせいなのか一気に読もうとすると読めてしまうもののなんだか味気なく少しずつ読んでいくほうが良い気がしていて日記を読むのが好きなのに大量に読むことができず悲しいところだなと思う。

日記

3/10

お昼におかゆを作ったら水をいれすぎてしまいふやふやでびちゃびちゃしたものを食べるはめになってしまった。

小袋成彬『分離派の夏』というアルバムを聴いていたら夏が恋しくなってきた。
今年の夏はいつもの夜道を日のあるうちに帰って遠くに入道雲を見たりしよう。

石川初『思考としてのランドスケープ 歩くこと、見つけること、育てること』(LIXIL出版)は昨年出た本で、すごく楽しみにしていたのにいざ買ったらちっとも読まないでいて最近ようやくぱらぱら読み始める。
(そういえば、たしか昨年二子玉川にあるスタバが併設されていて店内で本が読める書店で買ったのだった。『ひとり空間の都市論』という本のなかで本が読める宿泊施設について顕示的消費として利用されていると論じられていたことを思い出した。)

『思考としてのランドスケープ』の「公園の夏」という章では2016年にポケモンGOが配信され世田谷公園に人が大挙した出来事から公園につきまとう矛盾について語っている。青木淳は〈そこで行われることでその中身がつくらえれていく建築〉のことを「原っぱ」といっていて〈なにをしてもよい汎用の空間〉である公園はいっけん原っぱのような面白さがありそうだと思っていたのだけど、公園は〈なにをしてもよい汎用の空間〉を維持するために多くのことが制限されていってしまうのだという著者の説明にとても納得する。
あるいは近頃の公園には顕示的消費というのもあるかもしれないなどとも思う。


今日は休みで図書館へ行き何冊か本を借りてぱらぱら見たりしていたのだけど、自分の本棚にあるオースティンの『エマ 上』(ちくま文庫)を読み始めたら面白くてけっきょく図書館で借りた本は読まなかった。

日記

3/8

アイロンの当て布が破れてしまったので仕事帰りに百均による。帰りにどこそこへ寄っていこうと仕事中によく思うもののいざ帰宅時間になると疲れてしまいどこかへ寄っていくなんてことは一ミリも考えられなくなってしまうのだけど、もうしばらく前から当て布は破れていて本日は断固とした決意を持ってなんとか百均に寄ることができた。前日に石川初『思考としてのランドスケープ』をちょろっと読んで、百均のことに触れられていたから寄る気になったのかもしれないなどと思う。

びっくりしたのは、いざ寄ると今度は店から出るのが面倒に思えてきたことで、メッシュ地で透けて見えるタイプの当て布がいったいどこにあるのか、店内は一応分類されていて棚から分類を示した札が飛び出ているのに見つけられず、かといって店員に聞いたりもせずぶらぶら歩いてるうちに探す気があるのかないのか早く帰りたいという気持ちもある一方で探すとう能動的な行為、さらにはレジに並んだりちょうどいい感じに小銭を出したりすることを考えだしたら異様に面倒に思えてしまい無駄な時間を過ごしてしまった。

緊張がなければ弛緩もないのか。ただだらだらと大事な時間は過ぎてしまう。
弛緩などとまたしても書いてしまったけどどういうつもりで書いているのかと思う。

弛緩のイメージは、北野武の映画で例えばソナチネみたいに緊張を強いられる状況のなかで生まれるたわみすぎて永遠のような時間のつもりなのだけど、最後にソナチネを観たのはずいぶん前でぜんぜん違う映画かもしれない。

ある作品について、こういう作品だったよな、というぼんやりした印象だけを覚えていて、久しぶりに読み返してみるとぜんぜん違う作品だったということはよくあることで、読み返してしまうと読み返す前の、「こういう作品だったよな」は薄れていってしまう。

この「こういう作品だったよな」といったときのその存在しない作品はなんなのか。
間違いといえば間違いなのだけど、曖昧な良い印象、さっきまで一緒にいた人の香水が自分の服に移っているといった感じの、実体のない作品にしても忘れるにはもったいないような気もする。

本日は松浦理英子『裏ヴァージョン』を少し読む。松浦理英子の本は読み始めるとどんどん読んでしまう。話がおもしろいからというのももちろんそうなのだけど、じっくり立ち止まってしまうと自分自身の嫌な面をほじくりかえしてしまいそうで、それは読者についてだったりするしほかのことだったりもしてなんなのかはっきりしないくらい立ち止まらずに読んでいるであって、いつかじっくり読むだろうかなどと思いつつもそのためにはまず良い体調を迎えなくてはならないし、だとすれば休息が必要だななどと考えてるうちにはて自分は疲れているのだろうかと思うとそれにしては別に激しく働いしてるわけではないのだし、いったいなにに疲れているのだろうかとぜんぜん違うことを考えはじめてしまいそうやっていつかそのうちなどと思っているうちは何もしないのだとあまりに退屈な格言めいたことばが浮かんでしまいそれに逆らってなにかものを考えようともせずにただただうんざりして寝る。

日記

3/7

休みなのでなにかしたいけれどなにもすることが思いつかず、本など読んで過ごす。
一日まったく家から出ないのも不健康だと思うものの近所の図書館くらいしか行くところはなくそれでも家にいるよりかは良いだろうと思ったところで休館だということを思い出し、雨も降っているし、と結局一日家から出なかった。

ちかごろはだいぶ暖かくなったとはいえ、家にいると暖房をつけて過ごす。夕方ごろ郵便が届いたので、椅子を二つ並べて腰に悪そうな体勢で寝ていたところを起こされ外に出ると冷んやりした外気の感じがなんだか良かった。雨はやんでいた。とても静か。あたりの草木から落ちる水の音だけがしている。雨の残響をしばらく聴いていて、なんかこう、本当のぼんやりする時間、外界のものに目や耳を済ます時間を持ったほうが良いのではないかという気持ちになったけど、そういう時間を持とうと思って持つとそれはそれで嘘くさい気分になってしまうものだから、何事かに夢中になってふと気付いたときに訪れるのを待つしかないのだと思った。夢中になったり気を張ったりするのはもしかしたらそうした弛緩した時間を待つためにあるのかもしれない、などと思う。

 

カーヴァーの短編をいくつかパラパラみたり、笙野頼子『二百回忌』(新潮文庫)を読んだり居眠りしているうちにあっという間に一日は終わってしまった。

『二百回忌』はすごく良かった。
表題作の「二百回忌」は死んだ人も蘇る賑やかな法事をする独特な風習を描いたもので、死んだ人も生きた人も他の人の影響を受けてどこかおかしな感じになってしまい、語り手もまた話し方が変化したりして影響を受けたりすることがさらっと書かれていておもしろい。

「ふるえるふるさと」は実家に帰った主人公が振動をきっかけとして過去に戻ったりするこれもやっぱり不思議な話。地元の祭りへ行くのだけど〈祭りの音のする方に歩いている。その音につれて地面が、トランポリンのように振動している〉。そしてすぐあとの文章で過去に戻ってしまうのだけど、そこの書き方がいい。

そういえばきのうから帰省していたのだった。多分家を出て歩いてきたのだろう。が、気が付くと子供になっていて子供になってしまうと家に帰りたくなり、すると、いつのまにか、また元の家の中に私は座っていた。

子供になると家に帰りたくなってしまい家にいる、と原因と結果なのだけど、原因と結果がまったくつながらないのにそう書けば繋がってしまうのだから可笑しい。

そのあと揺れるたびに場面が切り替わって過去の様々な私に私は乗り替わっていく。しかし途中からはそのような明確な切り替え点のようなものはなくなり、最初は昔の記憶を追体験しているような感じだったのに次第に幻想的というかあきらかに嘘の体験もまじり不思議な感じがましていく。