悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記4/14~16

4/14

『俘虜記』やなんやら読みながら過ごす。

〈私は消燈後の暗闇で反省したことを翌日簡単に書き誌した。少年時から招集前までの生涯の各瞬間を検討して、私は遂に自分が何者でもない、こうして南海の人知れぬ孤島で無意味に死んでも、少しも惜しくはない人間だという確信に達した。そして私は死を怖れなくなった。〉(俘虜記)

語り手は文章を書くという行為をそれほど自然ではないと考える。文字に言葉を定着させるのは多数の読者や伝えるためだろう、そこから日記を書くにいたるには読者を自分自身に設定するのだろう、と考えをすすめる。さらに、日記を書く兵士たちは後日日記を読み返す希望を持ち得ないだろう、それは私も同じだ、と書く。
〈現代の市民社会は戦場と同じく、それほど我々に辛いのである〉とも書く。

休みだったのにまったく辛い1日だった。
時間が経つことがおそろしく、明日からの仕事のことを思うと、そのままなだらかに続いた生活のさきで、とつぜん現れる行き止まりを見るようだ。
生活に不向きなのかもしれない。


4/15

読書会について。
わたしをふくめて三人でやっていて、一人が連絡つかなくなったのはもう数ヶ月前の話。
いなくなった一人は面識がなかったので、まあそんなものかという気でいたけど、どうもわたし以外の二人の間で恋愛絡みのゴタゴタがあったらしい。先日まったくの第三者からきく。
いやーな気分。
最近嫌なことが続いているので、こんなどうしょうもない話でも凹む。
 
本日、晴れ。まだ冬の空の高さを感じる。
〈今日の空 宇宙までつきぬけそう〉青空/スガシカオ
宇宙を感じたりはしないけど、なにかしら大きな空間がわたしの頭上にあるのだということを意識する。
大きな空間と距離。たとえばそれは、わたしの内側にあるものに似ているようにも思う。
身体は外側と内側の境界だったりするだろうか、とわたしは身体が皮膚が空気と触れる線であると錯覚する。輪郭を構成する線に切れ目をいれ端をそっと開いていけば、景色に溶け込んでしまうことを、たんなる願望だからなのか、溶け込んでしまうということが皮膚にどのような感触をもたらすのかわからないまま、思い浮かべている。


4/16

今日もとても晴れ。
仕事中、人を待っている時間があり、外でつったってぼおっとしていた。
休みの日の自由な時間は、なにかしなくてはならないような気がしてせわしなく過ごしてしまうから、こういう時間は貴重なんじゃないだろうかと思ったりする。
こういう時間というのは、飛行機が飛んでいるのをみて飛行機が飛んでいるなと思いつつ、飛行機が飛んでいくのをずっと眺めている時間。

〈実際に密林を横切って対峙中の米兵の前に現れるのは勇気がいる。そして思想には戦場でそれだけの勇気を支える力はないと思われる。〉(俘虜記)
収容所で唯一の「思想的投降者」であったと〈私〉がみとめる綾野について書かれたくだりのなかの一文。
共産主義者であった綾野がそのような投降をなし得たのは、〈思想的一陣営より他の陣営に投じる経験〉があったからではないかと推測する。

『俘虜記』の文章の、ある出来事についてくだした判断からさらに一歩踏み込んでいくような書き方はおもしろい。妙に内省的に観念的なことばかりが書かれるわけではないのは、書かれている出来事が圧倒的なことだからなのか、判然とはしないけど、すごくて、やはり、とても良い。

『俘虜記』では、収容所の生活での退屈について何度も触れられ、かつてわたしがちょっと特殊で閉鎖的な場所ですごした時期のことを思い出したりもする。もちろん、収容所とは比べるべくもないのだけど、当時は退屈による内省のようなものがあった。

飛行機を眺め、ぼんやりしている間は何も考えずぼんやりする。
わたしの職場の上空には飛行機が何度も通るので、飛行機が通っていない時間も、次の飛行機が通過するまでの時間、というふうに思えて飛行機が通過する時間のうちに含まれてしまい、ぼんやりは続く。
退屈。しかし、内省的になるほど退屈でもない、1日のうちの空隙。

日記4/11~13

4/11

休み。
街へ出かける。風が強い。
用事があったのだけど、それだけで帰るのももったいない気がして、かつて仲の良かった人の痕跡を辿って街を歩く。
池袋には公園がいくつかあって、いくつかの公園では改修工事をしていた。

加藤秀一『はじめてのジャンダー学』を読む。勉強になる。
著者の他の初学者向けの文章を読んだときも思ったけど、文章はすこし苦手。


4/12

『俘虜記』が読みたくなり、読む。
今年こそは『レイテ戦記』も読みたいと意気込む。
とはいえ、この先2週間くらい仕事が忙しいようなので、それを思うとつらい。

雪が降ったのは、先日のこと。
朝方はみぞれのようだったけど、昼前にはずいぶん勢いよく降っていた。
ブログを遡っていくと、一番最初の記事で雪が降った日のことを書いている。
この記事はわたしが書いたものではない。もともとこのブログはわたしともう一人がいて、二人で更新していくことを企図されていた。
いろいろあってけっきょくわたしがひとりで書いている。

4/13

仕事終わりでSとお酒を飲む。
お酒を飲んだくれてる人がいかに嫌いかという話をしているうちにだんだん酔っぱらう。
ほんとは、そんなに嫌いじゃないかも、なんて、終電間際の週末の街でてかてかした顔をした人々をみて思ったりもする。

飲み屋の前なんかで、集団が二次会へ行こうかどうかとか、なんだか持て余した時間を過ごしているのは好き。
はたから見てると楽しい時間を過ごしているようなのに、きっとその場にいたら、早く帰りたいとか思ってしまうのだけど。

電車のなかで枡野浩一の『あるきかたがただしくない』をすこし読む。
離婚し、息子に会えないかなしみがずっと書かれている。それ以外のことも書いているのに、なんでもかんでもそのかなしみにつながっていくよう。

日記4/7

4/7

休み。
先の予定のことを考えて憂鬱な気分になる。
ここ数日、気が好転しないので気分をかえるために天沢退二郎『オレンジ党と黒い釜』を読む。明るい話ではないけど、とても好き。この小説のジュブナイル的な良さは、主人公のルミ子が転校してきたそのときから仲間たちを予感していて、運命づけられているようなところだと思う。ルミ子が彼らと仲間になることに理由はあるのだけど、それは必ずしもルミ子と彼らの気が合うことを根拠づけはしないのに、彼らはすでに仲間なのだ。

仲間は良い。仲間ということばで思い出すのは漫画『プラネテス』の4巻で作者がカバーの見返しに書いている短い文章。

死ぬとか、生きるとか、それらの意味とか、宇宙のこととか、戦争とか、平和とか、かわいいあの子のこととか、ケンカ別れしたままの友達のこととか、昔やらかした大失敗を後悔したりとか、僕の脳ミソはだいたいその手の「考えたってしょーがないだろ」系の問題でいっぱいです。答えのないことをダラダラ考えて時間をムダにして、時間のムダだからとりあえず現時点での結論をヒネリ出そうとして、やっぱり出なくて、そんなことをしている間は他のことがウワの空になってて、コーヒーカップをひっくり返たりしちゃったりして、ああもう困ったもんだ。そんな僕につける薬はあるんでしょうか? あるんでしょうかってば。ないならせめて仲間が欲しいです。

プラネテスの4巻は最終巻で、ストーリーにはいちおう結論のようなものがあり、それなりに明るいものなのに、どうしてこのようなやりきれない文章が一番最後に載っているのだろう。理由はわからないけど、ときどき思い出す。

いなくなってしまったり、もう会えなくなってしまった人のことをよく考える。知り合いというか蜜に関わった人がたぶん少ないのでみんなよくおぼえてる。元気でやってそうな人ならいいけど、そうじゃない、問題の多そうな人は、心配だけ残してどこかへ行ってしまうなんてひどいと思う。まあ半分、冗談。なんというか、こういう絶対に相手には届きっこない感情というのは宙に浮いているものなのだろうか。行き場のない、かなしいものなのだろうか。そうではないといいけど。でも、そういった感情というのはいまこの瞬間にもあらゆる所で溢れかえっているに違いない。

石原千秋の『漱石と三人の読者』という本を最近読んだ。漱石がいかに読み手というものを意識していたかということが書かれている。そのなかで漱石が存在を意識していなかった読者の存在というのが出てくる。
届かないと思われた感情のようなものも、まったく見ず知らずの人に届くということもあるのだろうか。もちろんなんらかの形にしなければ、誰にも届きはしないのだけど。

日記4/4

4/4

暖かい1日。
「人生なにがあるかわからない」という言葉をちかごろどこかで聞いて、たしか偶然の出会いが思わぬ方向に転んでいったという話をしていて出てきたのだと思うけど、休みの日に家にばかりいてはそんなことも起こらないままだと夕方ころにとつぜん不安になってきて、家を飛び出しあたりをうろうろした。
あたりをうろうろする、というのはなんだか怪しい感じがする。
コートの襟を立て肩をいからせ歩く様がよく似合う。
きょろきょろと家々を見回しながらだとなお良い。
しかしそのばあい、「あの人はあたりをうろうろしている」と周りの人から言われるのであって、自分から「あたりをうろうろしました」というのは間違っている言い方かもしれない。

夕方にうろついた以外はソファに寝転んで小島信夫『黄金の女達 私の作家遍歴1』を読んだりした。
図書館で借りてぱらぱらみるくらいのつもりだったけど、思いのほか面白かった。

浩二(宇野浩二のこと)は退院後ぽつぽつ仕事をはじめるが、昭和十二年に、作家論『ゴオゴリ』を発表した。ゴオゴリのことを語るに当たって、浩二はロシアの歴史と文学との関係を辿っている。その中で、「アレクサンドル一世やニコライ一世のきびしい統制や流刑の不幸が幸福なことにロシア文学を生み出していた」と事情をのべる。もっとも幸福と書いたが、これは私がそう書いたが、これは私がそう書いただけであって、浩二自身がいっていたかどうかは疑問である。たとえ浩二がそう書いていなくとも、結果としてそうなるということを私は書いたのである。けっきょく浩二もまた私と同意見だったに違いないのである。そればかりか、八雲もまたほとんど同じ意見だったと思う。

 

こういう書き方は他のところでもしていて、可笑しいのだけど、どういうふうに理解したら良いのかはよくわからない。
後半になるにつれて、連載という形式が内容に影響を与えてくるようで、それもおもしろい。

昨日、明るいことをもっと書こうと思ったけど、明るいことがちっともわからない。
大きい窓があって陽のあたる食卓で、休みなのに早起きしたから手の込んだ朝食をゆっくりと食べるのは明るい。ひとりよりふたり、あるいはそれ以上のほうが良い。喧騒に疲れたわたしたちは会話をしない。それでも、例えば塩の瓶をとったり、コーヒーをカップに注いだりし合う動作は滑らかでコミュニケーションが成り立っていることがわかる。滑らかでかつゆっくり。休みなので急いだりする必要はないのだ。テレビを消してしまうほど厳かではなく、「情報バラエティ」が流れているけど音はとても小さく誰も観てはいない。
10時すぎに目覚めて、一日が始まった時点から敗北の気分のままそんなことを考えたり。

日記4/3

4/3

今週はなかなか忙しい。
それでも、たいした残業があるわけでもないし、はたから見ればとても楽な職場だろうと思う。
こんなんでいっぱいいっぱいになっているようでは、本当にポンコツなんじゃないかと思わずにはいられない。

岩本巌『現代アメリカ文学講義』という本のなかのレイモンド・カーヴァーについて〈誰しもが気がついてるように、カーヴァーの書く小さな物語は一見どこにでもあるアメリカの生活の断片を語っているようでありながら、奇妙なほどに〈不気味な驚き〉を読む者に与えます。つまり、ごく日常的でありながら異常な感覚(非日常性)をかもしだしているのです。〉と書いている。
それは作者による〈作られた狂気〉があるかなのだという。
わたしはカーヴァーの小説を読んでいるとき、会話の成り立たないような、言うなれば頭の悪そうな登場人物が出てくるたびに、もっと素朴にこういう人いるなと思ってしまう。

仕事中、わたしの話していることがまったく理解されないことがある。瞬発的に、相手のことをまったくばかなんじゃないかと思ってしまうのだけど、相手も同じようなことを思っているからお互いの言っていることが理解できないのだという可能性はとても高い。
相手のことをばかだと思っているわたしの方がばかで相手は実はばかじゃないとか、わたしが正しくて本当に相手がばかなのだとか、そういうことではなくて、お互いにほどほどにばかというのが真相なのではないかと思う。

重要なのは、そうは言ってもきっと根っこのところでわたしは自分のことをそれほどばかではないと思っているし相手もきっとそうなのだということで、だからこそ歩み寄りは困難だし、この絶望は深い。

カーヴァーの小説を読んでいるときに感じるやりきれなさはこの絶望に近いように思う。

ふだん小説を読んでいると、こんな賢しい会話があるもんかと思うことが多いのだけど、じっさいに世の中には非常に高度な会話をしている人も少なからずいるのでけっこう驚く。

 

ちかごろ暗いことばかり書いている気がするのでもっと明るく前向きなことを書いたりしたい。
日記などといいつつも、人前に晒しているこの文章の装いは日記風なのだし、わざわざ暗いことばかり装っていても辛くなるだけかもと思う。春だし明るい色の服を着よう。

日記4/2

4/2

すべての空き巣は固有の方法を持ち、一度捕まれば痕跡はたちまち辿られてしまう悲しい技術。
空き巣の悲しさはあまり儲からないということもある。

本日は仕事が忙しかった。忙しいのに、あくびがしょっちゅう出てしかたがなかった。昼過ぎからしゃっくりが止まらなくなり、あくびをしている最中にしゃっくりをすると、ヒャっと音が出てしまう。しゃっくりは夜になってもとまらず。今までもしょっちゅうしゃっくりが出るし出ると止まらなくなると思っているけど、他の人のしゃっくり事情については知らないのであんがい他の人も同じくらいしゃっくりが出ているのかもしれないし、そうだとすればわたしは他の人のしゃっくりにほとんど気がついていないので他の人もわたしのしゃっくりには気づいていない可能性がある。あるいは死ぬのかもしれないとも思う。しゃっくりが止まらなくなると、これはなにかのっぴきならない病気の前兆で、そのために死ぬかもしれないと思い不安になる。しゃっくりが原因で死ぬと死んでもしゃっくりをしていそうだ。
みんながお焼香をしているさいちゅうにもヒャッ、ヒャッとなるのはちょっとおかしい。
棺桶もその度に揺れたりするかもしれない。

しゃっくりが止まらなくても幸いにして不幸にして死ななかったので帰宅後は「私の作家遍歴」などを読んだりした。

ゴーガン(ゴーギャンのこと)はタヒチへいく。ゴーガンはヘルン(小泉八雲のこと)と同時代人で「私の作家遍歴」の著者は通底するものをみる。

海の上にある時は人は、目ざす陸地に辿りつけるということを、本当は考えないものだ、という。暴風雨や難破という事故のために、辿りつくことが僥倖だというのではない。陸地のまわりに海があるというのではなくて、海を進んで行くと、偶然のように陸があった、ということだからだ、という。陸地はそれほど心細い存在なのだ。実は海が主であるのだ。そうなると、どの陸も、海から見れば同じものともいえる。近づくと、木が茂り人が動いている、そしてそれがやがて街なのだ。 

 

という文章に続いて、

最初に見たところ、この小さな島には、何のふしぎなところもなかった。例えば、リオ・デジャネイロのすばらしい港に比ぶべくもない。目を皿にして、私は比較しようなどとは考えずに、この島を見つめていた。

 

というゴーガンの文章を引用する。作者は目をさらにしてというところに注目する。
さらに続けて、

ヘルンが初めてみる西インド諸島をえがいたり、日本の横浜をえがいたりする筆致と似ている。わたしはそういう文章を、とりたててくわしく紹介しようとしなかったけれども、ここで読者に想像していただければありがたい。 

 

と書き、ヘルンの話に戻るのだろうかと思わせつつ、ヘルンについて〈やはり次のような性質のものを、皿のような眼は見ていたのである。〉としたうえでやはりゴーガンの文章を引用する。

これは太古ノアの洪水に沈められてた山の頂きで、わずかにその頂きの先端だけが水面に出ているのだ。そこへある家族が脱れて来て(これは疑うべくもない)生活の根をおろした。珊瑚もまた、その新しい島をとりまき被うてはびこった。次第にその家族はふえて行った。しかし、それは、祖先からの孤独と淘汰の性格を保っていて、海がその偉大さを強調して鳴っている。

見ていたというより、どのように見ようとしていた、といった方がよかろう、と私には思える、見ようとしていたものが、ヘルンとよく似ているということである。

 

ヘルンについて語るのかと思いきやゴーガンばかり引用するのがちょっとおもしろい。

ヘルンが話の中心なのではなくて、あるいはヘルンとゴーガンを強引に結びつけようとしているわけでもなくて、ゴーガンについて語ることがそのままヘルンを語ることになっており、しかもそのヘルン像はほとんどゴーガン(なにしろ語られているのはゴーガンなのだから)に思える。なので「ヘルンの話に戻る」という言い方は間違っているかもしれない。
この両者の距離、さらには両者を対象としたときの作者との距離に独特のものがあるのかもしれないと思う。
面白く読んでいるような気もするけれど、論旨のようなものはちっとも理解していないような気もする。

日記4/1

4/1

〈そして、僕が十六年前と同様、自己弁明のためにルソーと彼の『告白』という先例を引くのも、以前ほどの自信があってのことではないことを断っておかなければならない。なぜならば、不正をきわめてはいるが−−少なくとももっとも醜悪ないくつかの面においては−−間違いなく修正可能なこの世界、つまり僕たちが生きているこの世界に生きる人間は、誰一人として、逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない、現在の僕はこう確信しているからである。〉ミシェル・レリス『幻のアフリカ』

ちょろちょろと『幻のアフリカ』を寝る前なんかに読んでいる。いまだその分厚さに慣れずどういうふうに持ったらいいのかわからなくて途方にくれている。

それでも引用した序文がよく、期待がある。〈逃亡や告白という手段を用いることで責任を果たしたと称するわけにはゆかない〉。

『幻のアフリカ』を読んでいこうと思いつつもなぜか小島信夫『私の作家遍歴』も読み始めてしまい、こういうのはあまりよくない。

経験的に、興味があっちこっちに行ってしまい、しかもそれを動かすのが謎の焦燥感であるとき、精神状態はあまり良くない場合が多い。
比較的、余暇は本を読んで過ごすことが多く、読書の仕方で体調というか気分を知るきっかけになっているかもしれない。こういう気分のときに読む本はたいていちっとも頭に入らないし、面白く感じないことが多い。いっそのこと本を読んだりするのはやめて違うことをするほうが良いのかもしれない。だいいち読書はそれほど好きではない。好きだと思うこともあるけれど、やっぱりさほど好きではないような気がする。習慣であり、なにもそうしようと思ってしていることではない。

バーベキューがしたい。上流の、涼しい木陰があって、ちょうど川がカーブになっているところがいい。緩やかな流れで少し深い。気の合う仲間と集まって楽しむ。
しかし、この場合、楽しむというのはどうしたらいいのだろう。そもそも気の合う仲間とは。緊張して呼吸が浅くならない関係とは。まったく想像ができず途方にくれてしまう。一度ならずバーベキューに行ったこともあるけれど、ものすごく苦痛に感じた。

したいことができるとは限らない。選択肢というのはさほど多くない気もする。なにかを選び取ることは難しいし、ほとんどの場合できない。
なので、選ばされたことをしなくてはならない、ならないというか他にすることはないし、義務や強制ではなく、ただそうなってしまっている。

とかなんとか言ってみても、『私の作家遍歴』は面白いのでそちらへ気が向いていきそう。まだはじめのほう。語り手は進んでいく方向を示唆しつつも、あまり強く舵をとらない。話は小泉八雲を中心に進んでいく。
〈今回は、腹をきめて、どうせのこと、ヘルン先生にしばらく控えて貰うことにしてもう少し羽根をのばしてみることにする。こうした迂路はやがて裏からヘルン先生に迫る路でもあるのだから、しばらく御許し願いたい。〉(日本のもう一つの顔)
などと横道にそれることを宣言したりする箇所があるけれど、このあたりはまだ装いとして安心して読んでいられる。あまり切迫するようなものはない。
語り手と語る対象との距離が縮こまっていくようなところのほうがスリリングな感じがして面白い。どこか良い箇所がないかと思ったけれどすぐに見つからなかったので引用なし。

明日もどうせ辛いけど乗り切りましょう。そのためには良い睡眠を。