悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記5/3~5/6

5/3

驚くほどだらだらしている。
エミリー・ブロンテ嵐が丘』(河島弘美訳 新潮文庫)を読む。
ヒースクリフとキャシーの関係において、子ども時代の豊かな時間はそれを支える大事なものなのだろう、〈それでも二人にとっては、朝から荒野に逃げ出して行って一日じゅう遊んでいるのが何よりの楽しみで、あとで罰をうけることくらい何でもありませんでした。〉というその時間は、語り手に嵐が丘とスラッシュロックでの物語を語ってきかせるネリーの目から逃れていたと思うと、ネリーも読者も二人の時間には触れ得ないようだし、だからこそその時間を思い浮かべると、感動がある。

嵐が丘』つながりで志村貴子青い花』をぱらぱら読む。良い。最終巻は最終巻だけ読んでも泣けてくる。志村貴子で一番凄いと思うのは『放浪息子』だと思うけど、一番好きなのは『青い花』だなと思う。

 

5/5

ここしばらく日記を書くモチベーションがない。GWでだらけすぎかもしれない。とはいえ、日記を書くモチベーションというのも変で、無理して書くようなものでもない気もする。

良い天気なので楽しまなくてはという強迫観念に苛まれ、街に出て、古本屋などへ行く。

茶店がどこも満席で困ったなと、うろうろしているとビルの二階に喫茶店のようなものを見つけたので、入ると蕎麦の写真が出ており間違えて蕎麦屋に入ってしまったのだろうかと思う。内装は喫茶店のようなので、喫茶店だけど蕎麦もだしているのかもしれない。コーヒーを注文すると蕎麦は頼まないのかと聞かれたので、コーヒーも出している蕎麦屋なのかもしれない。他に客はいなかった。タバコを吸えますかとたずねると、蕎麦を食べている客がいなければ良いという。吸ってもいいがあまり好ましくはない、という感じだと受け取る。気が引けたけど、ためしに一本火をつけてみても店主はとくに気にしている風ではなくカウンターの奥で携帯をいじっていたのでもう一本急いで吸った。買った本でも読もうかと思ったものの、別の客が来て蕎麦を食べはじめてしまったら蕎麦も食べすに本を読むなんて図々しいやつだと思われるのではないだろうか、とまだ誰もいないのに不安で仕方なくなり、少しぼんやりして出る。他に客がおらず涼しくて居心地は良かった。店を出るときに今度はぜひ蕎麦も食べていってくださいと言われる。やはり蕎麦屋がメインなのかもしれない。お店の人も感じの良い人だった。

 

5/6

連休が終わってしまうという恐怖で、なにも手につかず一日ぼんやりする。
それでもいくらか本を読んだりする。

ミシェル・レリス『幻のアフリカ』より

七月十二日
朝、恐ろしい憂鬱。泣き出したいほど。それから、事務の仕事と、数日来放ってあったこの日記をつけるのに精を出して、やっと救い。

とある。
ページを戻ると七月十一日も十日の分も文章があるので、遡って書いているよう。それとも、このアフリカでの記録とは別に日記をつけているのだろうか。
日記はいつ書いているかという分類の仕方もできる。
その日に書いているのか、あるいは翌朝、もしくは一週間まとめて、とか。

『世界泥棒』で文藝賞を受賞した桜井晴也さんが書いていたブログは日記形式で、ある時期はおそらく一週間分まとめて書いていたのだと思う。平日はみな、会社に行った、と一言あるだけで、週末になると読んだ本の感想などを載せていた。生活をしながら本を読む人、という感じがして好きだった。生活しながら本を読む、本を読みながら生活をする。本を読むことは生活?

日記4/24~5/1

4/24

この前のこと。
電線に止まっていた鳥が数羽飛び立ち、飛び立たなかった鳥もいた。
飛び立った鳥を目で追おうとしたが、鳥らは同じ方向へ飛んでいくようでいても、そうではなく、数羽の鳥をひと固まりとして認識していたわたしの目は散らばっていく鳥らを不自然なもののように写し、ほどなく鳥らがおのおの一羽ずつの鳥であることを思い出す。どれか一羽を追うことに興味を感じず電線に目を戻せば何羽かの鳥がいて飛び立たなかったものがいたことに気がついたのだ。
飛び立たなかった鳥らは、飛び立たなかったという選択をしたようには見えず、飛び立っていった鳥など初めからいなかったかのように澄まして見えた。あまりに澄ました様子なので、次第にわたしが飛び立たなかった鳥だと思ったことは誤りではないかと思えてきた。

津島佑子『黙市』を少し読んだりする。明日は休みなので、油断していたらソファで寝ていた。

 

4/25

〈誰にも言えない猫との付き合いに気持を奪われている子ども。〉(黙市/津島佑子

会社の近くに野良猫がいる。誰にも言えない猫との付き合いに気持を奪われている様子の女の人を見かけるのだけど、それはそういう素ぶりなのかもと思っている。子どもではなくなってしまったから。いや、わたしは気持を奪われている振りをしてしまう。だからきっとその人もそうなのだと、思っているのかもしれない。対象と、視るという行為、の間にわたしという自意識が邪魔をする。

津島佑子の『黙市』はとても面白かった。11の短編は似たような状況が描かれるのだけど、それぞれ違った感じの良い文章があったりした。場所の書き方がとても好み。「島」の空き地も、「黙市」の六義園も、沼も浴室も良かった。


4/29

土曜日の夜からSと旅行へ行く。
旅行は数えるほどしか行ったことがないけれど、行くたびにやたらと歩いてしまう。今回もよく歩く。
あまり本など読まず、風景をみたりしてとても良い日を過ごすはすが、待ち時間や移動時間にぼやぼや本を読んだりする。
性格に難があるせいか友達がまったくいないわたしと唯一遊んでくれるSには感謝している。

 

4/30

なにもせず一日過ぎる。嘘。
小宮豊隆夏目漱石 中』を読んだりする。
「再び神経衰弱」の章は漱石がロンドンから帰ったあとのころについて書いていて、妻鏡子の文章を引用しつつ鏡子を批判する。弟子小宮対妻鏡子という感じでおかしい。どこかで鏡子と弟子らの軋轢について、文章を読んだ気がするけどどかだったか。
鏡子が、漱石の行動をなんでも「頭が悪くなった」せいだとするのも異常だけど、小宮の夫婦感のようなものも今からみればなかなか異常。

 

5/1

ネットをみてもテレビをみても、改元の話題ばかりで、辟易する。
ぼんやり本を読んだり、映画を観たりして一日過ごす。
『悪いやつら』と『タクシー運転手』を観る。
『悪いやつら』のハ・ジョンウ演じるチェ・ヒョンべはヤクザの親分で、大叔父であるチェ・ミンシクと手を組み勢力を拡大する。チェ・ミンシクは巧みな話術でさまざまな危機を乗り越えるのだけど、ミンシクの話術に翻弄されるヒョンべが異様に頭の悪い感じで、おかしい。『悪いやつら』の登場人物はみな他人を出し抜こうと知恵を働かせるなかヒョンべはどちらかといえば硬派なヤクザ、知能派というよりは武闘派で、ちょっとトロンとした目が頭の悪いよくいえばピュアな感じのキャラクターと相まって怖かった。

まだ何日か休みがあるので出歩いたりしたいところ。

日記4/20~23


4/20

眠いので早く寝る。
と思いつつ、1時ころまでぼんやり起きる。
よくない。
夜の寂しさは、きっと同じような気分の人もいるのだろうし、あんがい甘いものかもしれない、などと呑気坊主は思う。眠れずにうつ寝返りのきぬ擦れやため息だって聞こえてくるだろうに。

 

4/21

良い休み。
先日、切れてしまったハンモックを修復する。切れて落っこちてしまうのが怖いので、地面すれすれのところに吊るす。側からみたら間抜けかもしれないけど、良い。

笙野頼子『居場所もなかった』を読む。とても良かった。「居場所もなかった」と「背中の穴」という二篇を収録。どちらも引越しの話。

 

4/23

仕事。
笙野頼子「居場所もなかった」。

‥‥‥電話を切った後で山下清の絵のことを考えていた。繰り返し繰り返し細かいレンガなどを展開していき、丁寧に描写してあった作品群のことを。絵を観る側はその繰り返しに驚嘆する。が、そのレンガのひとつひとつを山下清が描いたのと同じ速度で見ていくわけではない。繰り返しはひとつの平面になって観る側の視界に入って来る。が、なんとなく全部を一度に見渡すということは活字に出来ない。いや、そもそも山下清の絵を見た人間はそのレンガが本当にひとつひとつ同じように描かれていると意識しただろうか。それとも繰り返しの法則とでもいうような約束事があってその中で全体を安心して眺めたのか。或いは、リアルというものは無意識のレベルでしか捉えられず、捉えた瞬間にはそれはもう意識出来ないものになるのか。

他にも、

(‥‥‥)これは作者の心象風景になり、現実のあの驚きからはまた一層遠くなってしまうのである。いや、そもそも本当にそんなことがあったのだろうか。

など。
書くことや書かれることの距離感についてのよう。
小説全体に、これらの文がどのように関わるのかわからない。けど、良い。
この小説では出来事を極端に誇張されたように、幻想的に、描写したりもするけど、このような距離感にたいする鋭敏なものがあるかと思うと緊張するし嬉しくなる。

日記4/17~19

4/17

思い出になりそうだなと思う瞬間がある。
いつか未来で思い浮かべる時の感触を先取りする。

街が一瞬、映画のワンシーンのようにみえる。
このことは街が映画に含まれているのか、あるいは映画が街に含まれているか。そのどちらでもなくわたしがなにかを見るということは、そもそもそのように記憶を折り重ねて透かすことなのか。

昨日、飛んでいる飛行機を見たことを書いた。
実は飛行機を見るまえからすでにわたしはぼんやりと空を眺めたりしたいと思っていた。その思いが飛行機を見させたのかもしれないし、昨日の日記を書いたときに思い浮かべたのは飛行機を見る前の、こういう風に飛行機を見たいという感触だった。


4/18

悪名高き(?)小宮豊隆著『夏目漱石』を少し読む。意外とおもしろい。
「変物」と題された章。漱石が変物を自認していたことを述べ、変物とは自分で自分のことを言うときに使う言葉ではなく、他人からそう言われる言葉なのになぜ漱石は自分自身で変物なのだなどと言ったのか、とそんなことをあれやこれや考察するところなど、おかしい。

本日は、休みだったけど仕事になる。
眠たいし、なにもやる気がでない。それでも帰ってきてから泉鏡花高野聖』などたを読んだりする。

日記、というかブログのこと。彼、あるいは彼女と、書くように私と書きたいような気もする。いっぽうで、そもそも書くということは私から遠く距離をたもつことなのかもしれずだとすればわたしは正しく私と肌をふれあいたいような気もする。

4/19

仕事。
眠たくて眠たくてしかたがない。
驚くほどさぼり、たらふく飯を食う。というのはどうだろうか、と昼食を半分くらい残し、近くのコンビニの喫煙所で考える。

寝不足だと世界が薄くなる。光を強く感じるといえばいいか。くっきりと色彩をとらえることができない。光に圧迫され、やがて眠ってしまうよう。気持ちのいい風が吹いたりすると、目が覚める、しゃんとする。
カメラ越しに、何かをのぞいているとき、カメラ越しだということをすっかり忘れ、夢中になって覗き込んでいるうちにふと、カメラ越しだったのだと気づくような、と言えばいいか、道路を行き交う車やすっかり緑色になったコブシの木を「見ている」ということをすっかり忘れていたことを思い出す瞬間、ああそういえばわたしは生きていたんだと、認識の認識みたいなものがおとずれる瞬間、という感覚がかつてあった。そういう感覚を今日感じたわけではなくて、そんな感覚があったな、とぼんやりした頭でふと思い出す。

帰宅後、チェーホフの手紙と笙野頼子『居場所もなかった』を少し読む。どちらも良い。『居場所もなかった』はすごく良い。

日記4/14~16

4/14

『俘虜記』やなんやら読みながら過ごす。

〈私は消燈後の暗闇で反省したことを翌日簡単に書き誌した。少年時から招集前までの生涯の各瞬間を検討して、私は遂に自分が何者でもない、こうして南海の人知れぬ孤島で無意味に死んでも、少しも惜しくはない人間だという確信に達した。そして私は死を怖れなくなった。〉(俘虜記)

語り手は文章を書くという行為をそれほど自然ではないと考える。文字に言葉を定着させるのは多数の読者や伝えるためだろう、そこから日記を書くにいたるには読者を自分自身に設定するのだろう、と考えをすすめる。さらに、日記を書く兵士たちは後日日記を読み返す希望を持ち得ないだろう、それは私も同じだ、と書く。
〈現代の市民社会は戦場と同じく、それほど我々に辛いのである〉とも書く。

休みだったのにまったく辛い1日だった。
時間が経つことがおそろしく、明日からの仕事のことを思うと、そのままなだらかに続いた生活のさきで、とつぜん現れる行き止まりを見るようだ。
生活に不向きなのかもしれない。


4/15

読書会について。
わたしをふくめて三人でやっていて、一人が連絡つかなくなったのはもう数ヶ月前の話。
いなくなった一人は面識がなかったので、まあそんなものかという気でいたけど、どうもわたし以外の二人の間で恋愛絡みのゴタゴタがあったらしい。先日まったくの第三者からきく。
いやーな気分。
最近嫌なことが続いているので、こんなどうしょうもない話でも凹む。
 
本日、晴れ。まだ冬の空の高さを感じる。
〈今日の空 宇宙までつきぬけそう〉青空/スガシカオ
宇宙を感じたりはしないけど、なにかしら大きな空間がわたしの頭上にあるのだということを意識する。
大きな空間と距離。たとえばそれは、わたしの内側にあるものに似ているようにも思う。
身体は外側と内側の境界だったりするだろうか、とわたしは身体が皮膚が空気と触れる線であると錯覚する。輪郭を構成する線に切れ目をいれ端をそっと開いていけば、景色に溶け込んでしまうことを、たんなる願望だからなのか、溶け込んでしまうということが皮膚にどのような感触をもたらすのかわからないまま、思い浮かべている。


4/16

今日もとても晴れ。
仕事中、人を待っている時間があり、外でつったってぼおっとしていた。
休みの日の自由な時間は、なにかしなくてはならないような気がしてせわしなく過ごしてしまうから、こういう時間は貴重なんじゃないだろうかと思ったりする。
こういう時間というのは、飛行機が飛んでいるのをみて飛行機が飛んでいるなと思いつつ、飛行機が飛んでいくのをずっと眺めている時間。

〈実際に密林を横切って対峙中の米兵の前に現れるのは勇気がいる。そして思想には戦場でそれだけの勇気を支える力はないと思われる。〉(俘虜記)
収容所で唯一の「思想的投降者」であったと〈私〉がみとめる綾野について書かれたくだりのなかの一文。
共産主義者であった綾野がそのような投降をなし得たのは、〈思想的一陣営より他の陣営に投じる経験〉があったからではないかと推測する。

『俘虜記』の文章の、ある出来事についてくだした判断からさらに一歩踏み込んでいくような書き方はおもしろい。妙に内省的に観念的なことばかりが書かれるわけではないのは、書かれている出来事が圧倒的なことだからなのか、判然とはしないけど、すごくて、やはり、とても良い。

『俘虜記』では、収容所の生活での退屈について何度も触れられ、かつてわたしがちょっと特殊で閉鎖的な場所ですごした時期のことを思い出したりもする。もちろん、収容所とは比べるべくもないのだけど、当時は退屈による内省のようなものがあった。

飛行機を眺め、ぼんやりしている間は何も考えずぼんやりする。
わたしの職場の上空には飛行機が何度も通るので、飛行機が通っていない時間も、次の飛行機が通過するまでの時間、というふうに思えて飛行機が通過する時間のうちに含まれてしまい、ぼんやりは続く。
退屈。しかし、内省的になるほど退屈でもない、1日のうちの空隙。

日記4/11~13

4/11

休み。
街へ出かける。風が強い。
用事があったのだけど、それだけで帰るのももったいない気がして、かつて仲の良かった人の痕跡を辿って街を歩く。
池袋には公園がいくつかあって、いくつかの公園では改修工事をしていた。

加藤秀一『はじめてのジャンダー学』を読む。勉強になる。
著者の他の初学者向けの文章を読んだときも思ったけど、文章はすこし苦手。


4/12

『俘虜記』が読みたくなり、読む。
今年こそは『レイテ戦記』も読みたいと意気込む。
とはいえ、この先2週間くらい仕事が忙しいようなので、それを思うとつらい。

雪が降ったのは、先日のこと。
朝方はみぞれのようだったけど、昼前にはずいぶん勢いよく降っていた。
ブログを遡っていくと、一番最初の記事で雪が降った日のことを書いている。
この記事はわたしが書いたものではない。もともとこのブログはわたしともう一人がいて、二人で更新していくことを企図されていた。
いろいろあってけっきょくわたしがひとりで書いている。

4/13

仕事終わりでSとお酒を飲む。
お酒を飲んだくれてる人がいかに嫌いかという話をしているうちにだんだん酔っぱらう。
ほんとは、そんなに嫌いじゃないかも、なんて、終電間際の週末の街でてかてかした顔をした人々をみて思ったりもする。

飲み屋の前なんかで、集団が二次会へ行こうかどうかとか、なんだか持て余した時間を過ごしているのは好き。
はたから見てると楽しい時間を過ごしているようなのに、きっとその場にいたら、早く帰りたいとか思ってしまうのだけど。

電車のなかで枡野浩一の『あるきかたがただしくない』をすこし読む。
離婚し、息子に会えないかなしみがずっと書かれている。それ以外のことも書いているのに、なんでもかんでもそのかなしみにつながっていくよう。

日記4/7

4/7

休み。
先の予定のことを考えて憂鬱な気分になる。
ここ数日、気が好転しないので気分をかえるために天沢退二郎『オレンジ党と黒い釜』を読む。明るい話ではないけど、とても好き。この小説のジュブナイル的な良さは、主人公のルミ子が転校してきたそのときから仲間たちを予感していて、運命づけられているようなところだと思う。ルミ子が彼らと仲間になることに理由はあるのだけど、それは必ずしもルミ子と彼らの気が合うことを根拠づけはしないのに、彼らはすでに仲間なのだ。

仲間は良い。仲間ということばで思い出すのは漫画『プラネテス』の4巻で作者がカバーの見返しに書いている短い文章。

死ぬとか、生きるとか、それらの意味とか、宇宙のこととか、戦争とか、平和とか、かわいいあの子のこととか、ケンカ別れしたままの友達のこととか、昔やらかした大失敗を後悔したりとか、僕の脳ミソはだいたいその手の「考えたってしょーがないだろ」系の問題でいっぱいです。答えのないことをダラダラ考えて時間をムダにして、時間のムダだからとりあえず現時点での結論をヒネリ出そうとして、やっぱり出なくて、そんなことをしている間は他のことがウワの空になってて、コーヒーカップをひっくり返たりしちゃったりして、ああもう困ったもんだ。そんな僕につける薬はあるんでしょうか? あるんでしょうかってば。ないならせめて仲間が欲しいです。

プラネテスの4巻は最終巻で、ストーリーにはいちおう結論のようなものがあり、それなりに明るいものなのに、どうしてこのようなやりきれない文章が一番最後に載っているのだろう。理由はわからないけど、ときどき思い出す。

いなくなってしまったり、もう会えなくなってしまった人のことをよく考える。知り合いというか蜜に関わった人がたぶん少ないのでみんなよくおぼえてる。元気でやってそうな人ならいいけど、そうじゃない、問題の多そうな人は、心配だけ残してどこかへ行ってしまうなんてひどいと思う。まあ半分、冗談。なんというか、こういう絶対に相手には届きっこない感情というのは宙に浮いているものなのだろうか。行き場のない、かなしいものなのだろうか。そうではないといいけど。でも、そういった感情というのはいまこの瞬間にもあらゆる所で溢れかえっているに違いない。

石原千秋の『漱石と三人の読者』という本を最近読んだ。漱石がいかに読み手というものを意識していたかということが書かれている。そのなかで漱石が存在を意識していなかった読者の存在というのが出てくる。
届かないと思われた感情のようなものも、まったく見ず知らずの人に届くということもあるのだろうか。もちろんなんらかの形にしなければ、誰にも届きはしないのだけど。