悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2019/12/15

眠いし、寒いし、
いろいろつらい。
起きてからずっとファンヒーター前にいたよう気がする。
ファンヒーターの前にいると暖かい。ファンヒーターのそばを離れると寒い。ファンヒーターの前にいると暖かいせいで、そばを離れるとよけい寒いという可能性がある。あるけれど、一度ファンヒーターの前に居ついてしまうともうだめです。

ファンヒーターの前から窓の外をみていると日が出ていて暖かそう気がしてくるので、そのままの格好で外に出てみると寒い。
寒い日に、窓の外に見える屋外をみて、暖かそうだなと想像する屋外はほんとうに良くて、その屋外へ行ってみたいのだけど、寒い日にしか現れないし、寒い日には寒のでそんな屋外は存在しない。それはとてもつらい。

 
でも、町屋良平の『ショパンゾンビ・コンテスタント』を読んだら面白かったので多少良くなった。語り手と登場人物の距離感が素敵な感じ。
手書きでなく、キーボードで文章を書くと句読点が多くなる気がするけど、ネットのインタビューを読んだら著者はスマホで文章を書いたりするらしい。
句読点が多いと呼吸が浅い感じがすると思っていた。この小説はそういう感じでもない。
呼吸が浅いと胸郭が緊張すると何かの本で読んだことがある。逆だったかもしれない。
それ以来、「緊張」と書いたり、言ったりするとき、胸郭が硬くなって呼吸が浅い状態を思い浮かべる。
今日はボクシングを観たりもした。良いボクサーにはやわらかさがある。緊張してない。
町屋良平は枡野浩一と古泉智弘がやっている『本と雑談ラジオ』というネットラジオで知った。芥川賞を受賞した小説について話していて、ボクシングの話らしい。読んでみたい。
ショパンゾンビ・コンテスタント』はピアニストの話だった。語り手は小説を書いているけど、書けない人で、そういう意味では伝統的なモチーフとも言える。会話の書き方などは語り手たちの〈いま/現在〉へのこだわりと通じているようでもある。音楽についてはあまりわからないので、もっと楽しめるのかもと思うとどきどきする。

 

明日も早いので早く寝なくてはいけない。わたしがいて、手や足があって、そこから部屋までの距離を満たしているものがあり、つまり孤独で夜が更けていくのをじっと待っているなんて。

2019/12/13

仕事へ行く。

忙しくなっている。

会社の近くの街路樹の銀杏は例年葉が黄色くなるより前に剪定されてしまい、これじゃ銀杏である意味があるのだろうかと思っていたのだけど、今年は道路に黄色い落ち葉の山が出来ているのにまだ丸坊主になっていない。もしかしたら毎年黄色くなってから剪定されている街路樹もあったのかもしれない。でも昨年まで意識したことはなく早く切り過ぎていることにだけ気づいていた。

今週はずっと眠く、気分もよくない。冷たい空気が内側にたくさん溜まっていく感じがする。

 

昨晩、諏訪哲史の『アサッテの人』を読んだ。

僕は驚いた拍子に、立て続けに数回ひどいくしゃみをした。路上で狙撃されるテロリストのように、僕の体は痙攣し前後にくねった。 

とある。
〈路上で狙撃されるテロリスト〉というのは逆ではないかと思った。テロリストは狙撃されるより狙撃する方が似合っているように思える。はたしてテロリストは狙撃されるのだろうか。テロリストの末路をわたしは知らないのでなんとも言えないとはいえ、ビルの屋上からターゲットを狙撃したテロリストが逃走のため路上に跳び出したところで警察官に狙撃されるということはあるかもしれない。

この文章は作中人物の日記の中の文章として小説中に現れる。それまで吃音に悩まされていたその人物は引用した出来事の後、吃音がなくなってしまう。くしゃみをしたり体が痙攣したりすることよりも、転倒したテロリストこそがきっかけなのだと言えたりするかもしれない。そう思うと納得したりもするのだけど、あるいはテロリストは狙撃されるものなのかもしれない。

〈かもしれない〉とばかり書いていることは前々から気になっていたけど、今日もかもしれないとばかり書いているかもしれない。
かもしれないには「ちょっと思っただけですが」というような言い訳めいたところがある、などと誰かに指摘されて恥ずかしい思いをしたい。そうしたらかもしれないなどと書くことはなくなるかもしれない。

 

日記は書き手とそこに書かれる私の距離がもっとも近い文章だといえる。しかしそれは日記が私以外の誰にも読まれないことを前提とした上でのことだ。逆に公開を前提とした日記は、そうではない日記以上に日記という形式を意識したものになる。だからそのような日記において、なにか書き手が恥ずかしくなってしまうような指摘があるとすれば、書かれていることの奥深くにあるものを暴こうとするよりも、そのように書いている振る舞いそのものについて触れられることかもしれない。

 

わたしは毎日はずかしい。その日一日の振る舞いも恥ずかしいし、ふいに思い出す過去の振る舞いも恥ずかしい。

自分がまったく恥ずかしいと思っていなかったことを恥ずかしいこととして指摘されることも恥ずかしい。これは特に恥ずかしい。例えば知らず知らず緊張すると掌底の部分で耳の裏を犬みたいに擦っているとか。

 

2019/12/11

眠くて眠くて仕方がない一日。
今週は月曜日からずっと眠たい。ここ2、3ヶ月ベッドに入る時間がこれまでより20分くらい遅くなっているのでその影響だろうか。それともやはり冬は寝て過ごすほうが良いのかもしれない。

昼寝をして起きると体温が下がるのか寒い。
手足が冷えている。手足が冷えているのは一年中なので、冷え性なのかもしれないけど、家では冬でも靴下をはかないのでそのせいかもしれない。

 


わたしの話し方は誰かに似ているだろうかと考える。話し方、あるいは語り方。書き方。
早く誰かに似なくてはどこにも属すことが出来ず、そのうち日本語を発することもおぼつかなくなってしまうかもしれない。

2019/12/04
月初はいぞがしい。
「月初」なんて言い方はこれまであまりしてこなかったけど、会社の人が言っていたのでわたしも平気で「月初」なんて言ってしまうようになった。
まあ、これはわたしが世間知らずなだけだとしても、ひさしぶりにあった同級生がすっかり駅前の不動産屋みたいな話し方をしていたりするとすこしさびしくなる。休みの日も仕事をしているみたいに話してしまうことに抵抗を感じる。
スーツを脱ぐように話し方だって変わっても良い。
逆に、わたしはあまりにもスーツを着ていることを意識しすぎているせいで職場にいるときはいつでも緊張しているのかもしれない。
いつでも、休みの日でも、職場にいるみたいに話すことができれば、職場にいるときの話し方でもリラックスできるだろうか。
週末の仕事帰りにコンビニへ寄ったりすると、休みの日と職場とでの中間みたいな話し方をしていることに気が付くことがある。そういう違和感をなくしていくことが、必要かもしれない。日々はつらいので。

 

日記をつけていますと人に言うとき、しばらくして読み返すとたのしいですよなんて言ったりするけど、ぜんぜんそんなことはない。読み返すことなんてないし、読み返したとしてもただただ恥ずかしい。
過去の日記を読み返すといつでも恥ずかしいということにおいてわたしは昔からあまり変化していない。

だとすれば、いつか未来のわたしが今日の日記を恥ずかしく思うということも想像することができる。それはすでに、いま、わたしは未来のわたしから恥ずかしがられているということになるのではないか。
誰だお前は、勝手に恥ずかしがりやがって、と過去のわたしの声だって聞こえる。

2019/12/10

健やかに一日を過ごす。
その日の天気を記す。天気予報で見たものではない。
曇りなのか晴れなのか曖昧な一日もある。数年後に見返したとき、晴れと書いてしまえば、その一日は晴れだったことになっている。でも読み返すことは決してないので、あまり悩む必要はない。
朝食と昼食と夕食を記す。外で食べた昼食は大きいお皿の上にいくつもおかずが乗っていて、このお皿を代表するおかずは何なのか、それともこのバランスでこれらのものが大きなお皿に乗っていることを総称して名前がついているのか、もはやわからなくても、外食とだけ書いておけばいい。
健やかな日々に演じるわたしは不必要なので、レシートを参考にした文章を書けばいい。

日記が正確ではないことが、かつてわたしが書いたという証左なのかもしれない。ライフログとの差は「まあ、たぶん晴れてたっしょ。晴れ。」と記すことにある。

日記を読み返すとき、どのわたしもわたしだと思っているかぎり、わたしはかつてのわたしの一人称をわたしのそれと混同してしまう。つまりわたしは日記を読み間違える。
しかし、この問題は問題ではない。やはりそのほとんどは読み返すことが決してないのだから。いや、読み返すかもしれない。でもいまは読み返さないような気がしている。読み返したとしても読み返さない。

 

 

昨日読んでいた後藤明生の『S温泉からの報告書』は最後の方で、種明かしのようなものが行われる。種明かしと言ってみると口に馴染む感じがするのだけど種明かしではない。友人の口を借りて語り手が、それまで書かれたものを分析する。『挟み撃ち』にも似たような先回りする自己言及があったように記憶している。基本的に小説のそれ自身に対する自己言及はほとんどの場合無邪気な意図とは反対に作り物であることの輪郭をはっきりとさせることにしかならない気がして好きではないのだけど、後藤明生のこうした書き方はけっこう好きだと思う。

2019/12/09

いくらなんでも寒すぎる。
一日中眠くて、寒すぎるために眠すぎたのか、眠すぎたために寒すぎたのか、わからないとはいえ関係があるのではないかと考える。

昼間に天気を調べたら最高気温が9度だった。
それほど寒くないような数字に思える。
天気予報とわたしの体感には関係がないのではないかと思うものの、夕方のニュースで「今日は気温より寒く感じました」とかなんとか言っていたりすると、だいたいわたしの体感と合っていたりするので、少なくともテレビの見解とわたしの体感温度はあまり変わらないと思う。
あるいは小さい頃からテレビの天気予報を見てきて影響をうけてきたためわたし自身の気温の感じ方がテレビの天気予報士の語るそれを真似してしまっているという説はどうだろうか。
とはいえ実際、自分を形作っているのは物心ついてから読んだ本などよりもそうした下らないものなのかもしれないとも思う。

 

「はあ 」とわたしはいった。

お昼休みに後藤明生の『S温泉からの報告書』を読んでいたら、こういう一文に出くわす。
わたしもよく「はあ」と言う。ぼんやりしていると人への返事をほとんど「はあ」にしてしまう。
文章を書いているときもすぐに「はあ」と書きたくなってしまうのだけど、はたして「はあ」と書いたところでわたしが思う「はあ」のニュアンスは伝わらないのではないかと不安になる。不安になるので「はあ」と書いてしまってもあわてて消す。「はあ」以外にこれは伝わらないのではないかと不安になることはほとんどない。だからなんでもいい加減に書いて晒してしまうわけだけど、なぜだか「はあ」はいい加減に扱えない。
それではまるで、わたしの書くことの中心には「はあ」があるのかもしれないと思えてくる。実際、そうなのかもしれない。

『S温泉からの報告書』で「はあ」が出てくるのは、主人公が病院へ行き、看護師にちょっとしたお願いをしたものの断られてしまう場面。断れたうえにあれやこれやと断った理由を看護師述べるので、「はあ」という半端な返事になってしまったのだと思う。

 この「はあ」はわたしが思う「はあ」にとても近いと思う。
間違ってもため息なんかではないし、ヤンキーみたく語尾が上がるわけでもない。
はい、そうですが、そういうことなら、まあ、そうなんでしょうけど、その話にもおかなしなところがあるような気もしますけど最初の方はあんまりきいてなかったしどうでもいいと言えばたしかにどうでもいいし、なんというか、はあ。みたいな感じだろうか。

2019/12/05


図書館で借りた本が何冊か溜まっていたので読もうかなと思っていたのに、ちっとも読まなかった。
Netflixで『ドライヴ』と『麻薬王』という映画を観た。『ドライヴ』はずいぶん前に一度観たことがあった面白かった記憶があったけど、今回は思ったほど楽しめなかった。『麻薬王』も期待していたものとはぜんぜん違うものだった。ソン・ガンホの表情が好きなので、ソン・ガンホの顔ばかり映っていたのは良かった。

多和田葉子の『雲をつかむ話』を読む。
多和田葉子の小説のなかでも好きな部類だった。〈人は一生のうち何度くらい犯人と出遭うのだろう。〉という書き出しは一番好きかもしれない。

 

ドブネズミには、なぜ価値のあるものが分かるのだろう。いろいろ考えた結果、アンネッテが注目したのは、においだった。一生懸命になると指からある種の汗が出て、それが物に付着する。犬は怖がっている人がいると、独特の汗のにおいで分かるというではないか。人の気持ちはにおいになって漏れ出しているのではないのか。そんな話をアンネッテがしてくれたことを思い出した。

ドブネズミを飼っている登場人物いて、ドブネズミが飼い主の大切にしているものを巣に持っていってしまうのでなぜだろうと考える。
犬と生活しているとき、犬がこちらの何かを受け取っていることを感じる時がある。言葉を理解しているとは思わないけど、なにかしらのメッセージがこちらから出ていてそれを読み取っているのだ。日ごろ、言葉を発すれば通じると思っているので不思議な気持ちになる。犬をたくみに従わせる人は、犬が何のメッセージを読み取っているのかを理解していて、犬の読み取ることのできるメッセージを発しているのだろうと思う。

多和田葉子の小説では、ゴシップめいた噂話や勝手な憶測がよく出てくると思っていて、そういう場面はけっこう好きなのだけど、においについてもよく書かれている気がする。
わたしにとってにおいといえば、納豆と遺体で、どちらのにおいもあまり好きではないのに一度嗅いでしまうといつまでも鼻の周りに残っている感じがする。多和田葉子のにおいはそうした避けがたいものというよりも、噂話や勝手な身上とおなじように嗅ぎつけてしまうものだとすれば、なんとなく話としておさまりがよい気がしたけど、これまで読んだ小説について実はあまりおぼえていない。

 

 

2019/12/03

お弁当に箸が入っていないといったような不運が続く一日を過ごす。
ネットで星座占いをみていたせいかもしれない。
占いの内容など、ほとんどおぼえていないし、そもそも流し読みをしたので読んですらいないかもしれない。
それでも占いを読んでために一日を占い的に解釈する。あるいは占い的な気分が先にあったからこそネットでたまたま目にした占いの記事をタップしたのかもしれない。
客観的な事実として、他の日と比較したときに不運な出来事が多かった可能性もあるけど、もう占いを見てしまったので関係ないと思うことも占いに絡めとられていると言えるのではないか。

 

この話を読んでどこかで聞いたことのある話だと思った人は、わたしの口から直接その話を聞いたことがあったのかもしれないし、別の小説に別の形で現れた人とそっくりであることに気がついたのかもしれない。何度も話していれば手垢がついてしまうが、それはそれでちょうど骨董品が収集家の手の垢で磨かれていくのと同じでいいのではないかと思う。
多和田葉子『雲をつかむ話』

この文章は〈それにしても体験話というものが何度も繰り返し話しているうちに嘘になって熟していくのはなぜだろう。〉と続く。芸人のエピソードトークが洗練されていくとともに浮世離れした感じもしてしまうことを思い出す。話しなれた話は、上手に話せてしまうことに問題があるのかもしれない。しかし、ここでは〈別の小説に別の形で現れた人とそっくりであることに〉というところに興味をひかれた。
いろんな人が同じ話をしていくうちに誰の話かわからなくなってしまう、ということを想像する。古典落語はそういうものかもしれない。同じ話をいろんな人がすることでうまれる陰影。この題目といえばこの人、というのはあるかもしれないけど、ただその人の話だけがあるわけではない。いまだに私の名前にばかりこだわってしまうわたしたちには関係ない話かもしれないけど。
芸人ばかり思い浮かべるのはアンタッチャブルが復活したせいだと思う。2004年のM-1を見返していたら柴田の舌の巻き方が思っていた以上で驚く。