悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。
昨晩、吉増剛造の「黄金詩篇」を途中まで読んだ。例によって何も頭に残っていないつもりだったのだけど、今日の仕事中ふいに「動詞しか信じない」という言葉が浮かんできて、これは「黄金詩篇」の中のことばだなと思った。ふいにに浮かんできたと書いたけど、実際はちゃんと文脈があって浮かんだことだ。


その時ブログのことを考えていた。「遺書としてのブログ」という言葉が浮かんだり消えたりしていた。「遺書としてのブログ」を意図して書かれたブログは実際にあるだろう。誰かが遺書と意図したブログを書いたとして、書き手が具体的に想像しうる読者がいない場合、見ず知らずの誰かが「遺書としてのブログ」を読んだとしても、「書き手」はおらず「遺書」しかなくなってしまうのだろうか、、、、というようなことを考えていた。

「遺書」だとかそういうことはたぶんあまり重要ではなく、そのとき「書き手」の「遺書」が「読み手」が「書き手」を知らないことによりただ「遺書」だけが漂うというイメージに、読書するということもまたただただ「読む」ということになるにはどうしたらいいだろうかというイメージが重なってきてそれが気持ちよく思えていたのだった。重なってきた理由は、おそらくすごく単純に「AがB」というのがあって、「Aが」が消えることで「B」だけになるということの連想にすぎず、おそらく両者の間に関係はない。そして「読む」ということだけが残るというイメージが浮かんできたときに「動詞しか信じない」ということばが浮かんだのだ。

そして前田愛の「文学テクスト入門」のなかに出てくる「述語的統合」ということばが浮かんだ。このことばが何を意味するのかはわからない。そもそもそんな言葉があったかどうかも危うい。ふつうの文章が、主語があって述語あるのにたいして述語的統合は例えば「走る」という言葉があったときに、ふつうなら「ぼくが走る」や「ぼくが話す」のように「ぼく」があって「走る」や「話す」は交換可能なもののうちの一つとなるのだけど、それが逆で「Aは走る」とか「Bが走る」とか走るにたいして主語が交換可能になっていくみたいな話だったと記憶している。とはいえ真意は不明。と考えた次に古井由吉が頭に浮かんだ。これは簡単で、「述語的統合」の話は古井の「円陣を組む女たち」をもとにして書いているからだ。「円陣を組む女たち」はその名の通り、女たちが円陣を組む話。たしか場所は公園で、女たちが円陣を組んで、地面で足を蹴るシーンから「述語的統合」の話が出てくるのではなかったか。わからないし、「円陣を組む女たち」は読んだことがない。


「動詞しか信じない」と「述語的統合」はおそらく関係ない、と思い。よくよく考えると動詞と述語の違いがよくわかっていないうえに、今は仕事中なのだという驚くべき発見をしたのだった。

「蕩児の家系」の中で大岡信赤瀬川源平による表紙をからめて内容を語っていたけど、たしかに凄い表紙。
黄金詩篇 (思潮ライブラリー・名著名詩選)