悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。死ぬほど退屈。ちょっと死んだ気がする。右手の薬指だけ、というのではなく、からだが5パーセント透けるみたいな。

「群像特別編集 大江健三郎」によると、「日常生活の冒険」は1963年2月から1964年2月まで文学界に連載だった。「個人的な体験」は64年の8月に書き下ろしで出版されているので、同じ頃に書いていたのだろうか。ちなみに「群像特別編集 大江健三郎」は写真がいっぱい載っていて面白い。作家の写真といえば昨年でた小谷野敦さんの「文豪の女遍歴」も作家の「よく出回ってる写真」とは違うものが載っていて面白い。

その日

仕事。
ふらふらと新宿へ行く。なにをするわけでもない。いや、嘘だ。語るすべを持たない。
「日常生活の冒険」を読み終える。

その日

休み。
大学の友人から連絡がくる。誰かが結婚したらしい。結婚式に来ないかと嘘か本当かわからない誘い。お互い冗談を言っているのか本当のことを言っているのかわからない。お互いいろいろと変わったということか。


中江俊夫「語彙集」を少し読む。単語や、簡単な言葉が頻繁な行替えでテンポよく進んでいく。語彙集第一章。韻を踏んだり、意味のつながりで行替えを行なったり。行と行(そもそも行とは、という疑問も浮かばないでもない。)のつながりがわからないものもあって、そこにごつごつとしたリズムのようなものを感じたけど、第二章では音感でのつながりが第一章と比べると鮮明で親父ギャグのようですらあり、スムーズ。単純な楽しさを感じる。

その日

仕事。
仮に今の仕事をやめて、もっと優秀な人になりきわめて有意義でやりがいに満ちた仕事をはじめたとしても、今の仕事のような本当は誰にも必要のない惰性で存在している仕事は山ほどありなくなりはしないし、なくなったら困る人間も山ほどいるのだ!

中江俊夫「語彙集」を少し読む。形式、というか自ら定めた押韻などのルールが、語り的なだらしなさから文章を遠ざけている。単調なような繰り返される「似た」ことばのなかで、かすかにずれることが、いや、ずれなくともただ羅列されることによって、多くのことがとても価値の低いもの、あるいは偽物のように感じて、切ない。

このパートでは天気の話がまったくないことに気づいた。こういうときはくるりの東京を聴こう。一緒に聴いてくれたら嬉しい。春が来ていることに喜びをおぼえるためには春が来ていることに気づかなければならない。それはふと目をふせたときにあるそれだ。