悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。
職場の飲み会。
まったく乗り気じゃなかったのだけど、送別会ということで少ししんみり。
昼休み少しだけ「蜂アカデミーへの報告」を読んだだけ。

 

その日

休み。
図書館に行く。道中、図書館のサイトをみると休館で、げんなりしたものの、返却ポストに返すためにいちおう行くと、開館していた。カレンダーを一週間勘違いしていたらしい。その後、別の自治体の図書館に行くとなぜか休館。みょうな捻れというか、不条理小説の主人公みたいで楽しくなっちゃう。雪が降っていたので、帰り道でものすごい吹雪にあって道に迷ってしまうと、駅前のロータリーにいて、何度帰ろうとしても帰れなくなっちゃったらますます楽しそうなどと思っているうちに帰宅。


古谷利裕『人はある日とつぜん小説家になる』を読む。
励まされるようなことがたくさんあり、また作家という個人と作品さらには、より大きい広がりとの関係について考えるきっかけがたくさんありそうで、いろいろ書きめぐらせたいところだけども、明日の仕事は早いので寝なければならない。おそらく、明日になったらいろんなことを忘れてしまっているだろうし、ふたたび粘り強く書く体力もないので悲しい。下手の横好きとしては本との距離間はこのくらいがせいぜいなのだ、としよう。

 

その日

仕事。

雨から、晴れ。寒くはなかった。
小笠原鳥類「素晴らしい海洋生物の観察」をちょびっと読む。
とても難しい。
難しいとはいってみたものの、なにが難しいのだろう。わかりにくいということだろうか。だとすれば、わかる、というのがあるかと言えばそんなこともないだろうに。

散文というと、一つの流れというか、一つの視点を通して直線的に続いていくものを思い浮かべるけど、この詩集の散文詩はそのようなものではない。たとえば、「標本は生きている」という作品では、ところどころとつぜん古文が挟まれていて、挟まれているというよりは流れのなかで唐突に切り替わるという感じだろうか、それはノイズのようでありぶれているものとしてあるように感じる。

他にも語りは流暢なようなのだけど、流暢すぎて弾むというか(そういえば打楽器ということば何度も出てくる)、わたしがおいていかれてしまうように感じることも多い。それでもなんとか辿っていくのは、頻出する単語が、なにかの目印のように感じるからかもしれない(感じてばっかりだ)。深海、水槽など水に関連するものはもちろん、色彩に関するもの、内蔵、ゼリー、塩味、などのことばは作品を越えて集中に何度も登場する。不思議なのが、海や水のイメージが、粘着質だったり、臓器的なものとともに語られることだろうか。いや、それらは深海生物のイメージだろうか。

「マイルカ」という作品では、イルカについての正確ともいえる描写がある。イルカのからだの色を描いて、色の境目に線が浮かぶ。以下その事からの連想。なにかを分け隔てるのは線なのか、面なのか。わたしは、一本の線が引かれたらそこに二つの区別ができるように思うのだけど「マイルカ」を読むと、面の濃淡がそこに存在しない線を浮かび上がらせるようだ。両者の違いとはなんなのだろう。たとえば、ことばはなにかを区別するものに感じる。ことばは面なのだろうか、線なのだろうか。線は、もともと区別のなかったものに区別を与えるイメージだけど、面は隣り合うことによって違いが生まれるイメージだ。だとすれば、ことばは線だろう。この詩集のなかのことばはどうなのだろう。

 

 

素晴らしい海岸生物の観察

素晴らしい海岸生物の観察