悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日


仕事。
今週は仕事が忙しい。忙しいときにかぎってますます忙しくなるのはなんでだろう。
原幸子『オンディーヌ』を読み終える。『昼顔』のほうが好み。
ある種の苦痛を切実にもとめるような身振りは、苦痛とは逆方向への希望を捨てきれないために生じるようで、その身振りが力強ければ力強いほど切ない。
近藤洋太『CQ I CQ』も少し読む。

その日


仕事。
気づけば数日、不思議な高揚感がある。
火照るような。気候のせいだろうか。
近藤洋太『CQICQ』を読んだ。全体的に、耳できこえるものの印象。それは音というより声だろうか。独白や対話が、句読点の使い方で表されているのだろう。印象だけども、「。」あった方が座りが良いように感じる。だとすれば、『「未来の子供」旅団』の後半、それまで声につけられていた「。」がなくなることで生まれるふわふわした座りの悪さは目覚めの予兆だろうか。

その日


仕事。
最近は仕事の休み時間には後藤明生の『日本近代文学との戦い』を読んでいる。この作家についてはこれは小説だとかエッセイだとか評論だとか考えようとしても仕方ないのかもしれないと思った。
家では近藤洋太『SSS』を少し読む。
休みの前日だと、妙に興奮してしまい本を読むどころではなくなってしまう。ということは私は興奮状態にあると本は読めないのかもしれない。読みながら興奮することはあるかもしれないけれども、興奮しているときに読む本というのはあるだろうか。興奮しながら書く文章というのはありそうだけども、どうだろう。

その日

休み。
曇っていたので1日家にいた。
犬と遊ぼうと思って外に出たけれど、寒いのでやめた。
近藤洋太『SSS』を読んだ。内容が重厚。自殺に関する大学のサークルに所属している学生の独白(一部独白以外もある)形式で、登場人物たちは二階堂奥歯など自殺した人にシンパシーを抱いている。
貞久秀紀『雲の行方』を少し読む。
いっけん不可解な文章を考察するさいに「〜としよう」と具体的な例を持ち出して、考察を押し進めるのだけど、その例が可笑しい。

その日


仕事。
読んだ本のこと、というか本を読むことについて書いていこうと考えていたけれど、思いのほかそれは困難なことのようだ。

貞久秀紀『雲の行方』を少し読む。写生の試み、と言い明示と暗示について考えていく。行きつ戻りつしつつ少しづつ進んでいく文章。
断片のような文章に番号が振られていて、1から順に進んでいくのだけど、そのことは文章が構成されたものであることを感じさせる。一筆ではないような感じといえばいいか。
断片化された文章群は、いまここ、という感じを失わせるようだ。それはとても凄いことだと思う。その凄さに執着したいような気もするけど、それにしては私の読書はせっかちだ。

その日

仕事。
とても疲れた。
貞久秀紀『雲の行方』を少し読む。
やはり、ひとつながりの思考の軌跡のように思えたとしてもこの文章は断片で、必ずしもひとつながりのものではない。

雲の行方

雲の行方