悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。
たまたま読んでいた井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』と穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ』の2冊で石原吉郎について同じ文章に触れていた。
本を読んでいるとこういうことがたまにある。誰しも経験があるだろう。
まったく意図したわけではない繋がりが不意に生まれる。
その繋がりを手放してしまうこともあるだろうし、新たな意味を付け加えることもあるだろう。
ぼくは、出来ることなら偶然を偶然として暖かく迎え入れたいと思っているのだけど、一瞬の交差を上手く捉えることが出来ないことの方が多い。
なので、せめて書き残しておくしかできない。
悲しいことだけど、そんなもんだ。


石原吉郎はシベリアでの収容所体験を経て詩人になった。そしてそのときのことを詩にしている。収容所体験にどのくらいの重きを置くかは論じる人によってまちまちだと思うけど、二人の著者はそのことに興味を示す。『きっとあの人の眠っているんだよ』では次のように触れる。

〈あまりに重い現実に対しては言葉が虚しくなる、ということは知っている。では、そのような現実を前にした時、我々は沈黙するしかないのだろうか。石原吉郎の答えはこうだ。〉と続けて石原吉郎の文章をひく。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意思が、詩の全体をささえるのである。(「詩の定義」『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫

井坂洋子の本では、冨岡悦子による『パウル・ツェラン石原吉郎』について書かれた箇所で出てくる。

こちらでも石原吉郎の収容所体験に触れる。
石原吉郎とともに収容された囚人たちが作業の行き帰りで隊列を組んで歩くとき、歩調を乱して隊列を見張るロシア兵に撃ち殺されぬよう列の外側へ人を押しやって内側へ入ろうとする。〈「ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる」〉。そんななか石原吉郎が出会った鹿野武一という男は常に外側にいたという。〈このひとりの男が石原に与えたもの、石原が詩人として立った中心部にあるものは、受苦の中のたった一遍の内省かもしれない。〉として、冨岡の著書からの孫引きで引用元がわからないが、次のようにひかれている。

「ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといってもいい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる」

前後の切り取る範囲が若干違うけれど、同じ箇所だ。
(文芸文庫の『石原吉郎散文詩集』を読んでみよう。)
引用する感性というのがあるのだろうか。その文章から書き手がうけとるものも似ている。
穂村弘は次のように書く

世界を沈黙が埋め尽くす時、散文の言葉はもはや機能できない。それが生み出すものは、現実の似姿だからだ。そんな時のために詩がある、というか、石原吉郎にとっては、そこには詩しかなかったのだ。その絶対零度の必然性に痺れる。

井坂洋子はこんな具合。

私はこの本を読みながら、詩でしか向かうことのできない、表現の方法として詩を選ぶしかないという内面に畏れを感じた。

どちらも詩でなければならないということの凄みを感じているようだ。〈絶対零度の必然性〉や〈畏れ〉というのはそういうことだろう。表現者にとって、ある方法が必然であるというのは羨ましいことだったりするのかと思っていた。しかしそう簡単でもないらしい。


その日


仕事。
明日は休みなので嬉しい。
津野海太郎『歩くひとりもの』を読んだ。
歩くこと、ひとりものであること、老いること、といった興味のあることがたくさん盛り込まれていて楽しい。


その日


休み。
本屋さんで『石原吉郎詩文集』を手に取ってみたら、なんのことはない、上の引用文は背表紙にすら引用されているものだった。みんが気になる一節ということだろう。
しかし、意外だったのが近頃読んでいる『パステルナークの白い家』の著者である佐々木幹郎が解説を、書いていた。
こういう風に縁がころころしていくのは楽しい。とはいえ、文芸文庫は高いので買わなかった。そういうところだぞ。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)