悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

灯台と自意識

どこかで宮崎駿堀田善衛の「方丈記私記」について、自分にとっての灯台だった、と書いていたおぼえがあります。


いったい自分がどこにいるのか、そしてどこへ向かっているのかわからない大海で、指針となるような本だったと言うようなことだったと思います。


私にはそんな灯台はありません。そのことはときどき私を不安にさせます。あるとき自分の現在地だと思っていたのとはぜんぜん違う場所にいることに気づく日がくるのではないだろうか。それどころか見当違いなところを泳ぎつづけたあげく生涯気づくことないまま沈んで行ってしまうのではないか。


どきどきして、世の中の人がどんなものが好きでなにが流行っていて、どんなことを考えているのか気になって仕方がなくなってしまいます。自らをチューニングするような感覚です。世の中の人がいまどこいて、そして自分はどこにいるのか。その同じことや違うことを把握していたい。把握するための地図がなくてはいられないのです。しかも地図が正しいものなのか、そして自分が地図を正しく読めているのかは関係なく、ただ正しいとされているような、正しいと思えるような地図を求めてしまいます。誰かの正しいという烙印があればそれは地図として私の必要を満たします。



それは「権威主義」なのでしょうか。たとえば、私は「○○○」の詩を熱心に読んだりするのですが、実のところ何がなんだかさっぱりわかりません。そのくせして、人にきかれたら、○○○とか読んでます、などと言ってしまうのです。微妙な話でして、「○○○」が権威かといえば、もっと権威的存在はいます。これは、権威的とは思われたくないと思いつつ一方で権威に寄りかかっていたいという心情が絶妙さをもとめた結果なのでしょう。とうぜんこれは○○○が良いとか悪いとかいう話ではありません。おそらく私が照らしたいのは、権威的な人間だと思われることを嫌いつつ一方では権威的なものを探してしまう心情なのです。ちょうどいい権威がほしい。


これは私一人だけの話ではないようです。「おまえも権威主義だ!」ということではありません。はじめに書いた、大海で彷徨う宮崎駿が「方丈記私記」という灯台を得たという話は、宮崎駿自身の目に「方丈記私記」という灯台が写ったという話であり、一人称的な話だといえるでしょう。一方で私自身が権威的な地図を求めてしまうときの、宮崎駿の例とは違う、権威的だけども「権威的だとは思われたくない」という心情をよくよくみてみると、私を権威的だと思ったり思わなかったりするのは、私以外の人間であることに気づきます。つまり私は見られ方を気にしているということなのではないでしょうか。私一人だけの話ではないとはそういう意味においてです。


権威的なやつだと思われたくない、と思う人は少なくないように思います。権威そのもの”偉そうなのではなくて偉いのだ”であればいいかもしれませんが、権威にしっぽふりふりの可愛いわんちゃんだと思われたい人は多くないでしょう。



ただ権威的な奴になりたくないというだけなら問題ないのに、どうして私はそれでもなお「ちょうどいい権威」をもとめるのでしょう。これもやはり見られ方の話なのではと思っています。そもそもなぜ権威に頼ってしまうのか。いま何の気なしに「頼ってしまう」と書きましたが、まさに頼ってしまうということ、代わりにやってくれないか、ということなのでしょう。本を好きな人がいたとします。ある人に読む本を選んでもらい、その本が面白かった。いつもそうだ。となると選んでくれた人が薦める本をもっと読みたいと思います。選んでくれる人が「権威的」ななにかであっても読んで楽しいのであれば問題はないように思います。私の場合は違います。私は「○○○」について面白さがなんにもわからない。楽しいから読んでいるわけではありません。「ちょうどいい権威であること」は楽しさとは無関係です。おそらく「ちょういい権威」を求める時、私は「ちょうどいい権威」を別のものとして求めているようです。なにせ、権威は嫌なのですから。



では「ちょうどいい権威」はなんの振りをしているだろう。センスのいい人を装うための「ちょうどいい権威」。あるジャンルで権威になるためには、それなり優れたものがあるわけですが、優れたものに敏感であるつまりセンスがいいことを人にアピールしたいと思っても、あまりに強い権威だと誰でも知っていますから、この人は権威的なものが好きなんだなと思われてしまいます。ニッチなジャンルの権威つまり「ちょうどいい」ものならば、多くの人には気づかれることなく、優れたものに敏感な振りが出来るということでしょうか。


おそらくそうなのでしょう。大事なのはここからです。こんなにも「見られ方」を気にしている私ですが、よくよく考えてみると周りに誰もいないのです。いったい誰の気をひこうと偽りのセンスエリートを装おうとしているのでしょう。まず大海にひとりきりでいるのだという認識からはじめなくてはいけなかったのです。そのことに気づいてはじめて灯台の必要を感じ、いずれは灯台をみつけることが出来るのかもしれません。それはつまり一人称的視点を得ることのこころみなのではないだろうかと思います。


いや、それすら、いらないのではないでしょうか。灯台灯台を見つめる目も。
海にいるのだとして、右も左もないようなところで、ひとり浮かんでいることを誰も気づかず、わたし自身も気づかないような。