悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日


仕事。
とても疲れた。
岡田隆彦詩集』を少し読む。

花村太郎『知的トレーニングの技術』の「青春病克服術」という章に以下のような文章があった。

 

青春期の空想癖や心理的動揺や死への魅惑などの 、一種のノイロ ーゼ症状は 、歴史的なロマン主義の個体発生だといえる 。だから 、自分を天才かもしれないと考え 、この平凡で無意味な日常生活をなんとか脱却しなければ自分はダメになってしまう 、と考えるのは 、健全な 「青春期 」症候群であると思ってさしつかえない 。
ただ 、この症候の経過のさせ方が問題になる 。へたをすると本当に自己破滅に陥る場合さえあるからだ 。若者の自殺が先進国に共通してふえているが 、この 「青春 」病の克服法は自分で見つけるしかなく 、医者にも教師にも頼れないのだ 、ということを知らない若者がふえてきたのがその一因ではないかとぼくは思う 。社会が悪い 、現代人の疎外状況が原因だ 、と解釈してみたところで 、やっぱり直面しなければならないのは 、この自分に固有の 、誰にも身代わりになってもらえぬ 「青春 」病なのだ 、ということは肝に銘じておきたい 。野坂昭如氏だって 「みんな悩んで大きくなった 」と唄ってたし 、本質的にはゲ ーテが悩んだのと同じ問題をぼくらも悩んでいるわけだ 。

 

僕自身、このような青春病ではないだろうけど、過剰に感傷的な性格もまたある種の青春病であるように思う。ハードな形式が、そのような感傷から抜け出す糸口なのではないか、と今のところ思っているのだけど、それにしては学が足らないかな、という感じ。だから知的トレーニングは必要だ。とはいえ、たった2時間いつもより残業しただけで、へろへろになってしまいまともに本も読めないようじゃなあ、と思う。
ぜんぶGW明けのせい。気圧のせい。あと、それと、

 

その日


仕事。
今日も天気が悪かった。
悪いというのも、それこそ雨に悪いか。
岡田隆彦詩集』を少し読む。
小谷野敦『東十条の女』も少し読む。

 

昨日の青春病について、自意識というのはどうしよもなく「私」にこだわってしまうことだと思い、私小説を連想した。
私小説の「私」のさばき方はなにかヒントになるのではないだろうか。
穂村弘が本の中で短歌を自己啓発本と真逆だ、というようなことを言っていたように思う。自己啓発本の「私」が自信満々でとても良く出来る人のように振る舞うのに対して、短歌は自信なさげで、なんにも上手くいかないようだ、とそんなようなことだった。自分をよく見せるにしろ、悪く見せるにしろ、そのように振る舞うということはあるらしい。

小谷野敦の「東十条の女」はサービス満点という感じでとても面白かったのだけど、振る舞うとか装うとかいう感じはしない。淡々とした文章のせいかもしれないし、小谷野敦のエッセイなどを読んでいる影響もあるのかもしれない。

 

私小説つながりで。西村賢太がこんなことを書いていた。「凶暴な自虐を支える狂い酒」と題された一篇で、嘉村磯多と川崎長太郎が自らの師について、尊敬しつつもひどいことも書いていたということに触れたのちの一節

 

無論、それらが悪いと云うのではない。むしろ私怨のこもっていない私小説なぞ、まるで無意味なものである。もっとも葛西にはーー或いは英光や藤澤清造私小説には、嘉村や長太郎の持つ、その種のいい気な他虐の甘さと云うのは不思議とみられない。他者を斬っても、返す刃は必ず自己に向けている。
 前三者と云えば、その加虐さ、他虐性を作中でも遺憾なく発揮した”被害者ぶった加害者”の文学と古くから見透かしたような評をなされ続けてきた私小説作家だが、一見他虐にみちたその本質は、実はどこまで自虐の中より生じていたものなのである。一方の嘉村や長太郎は深い内省の自虐を作中に横溢させる反面、意外とそこには他者への加虐性を内包している。


この文章に触発されて、嘉村礒多を読んだ僕はこんなことを書いていた。

 

 

僕が読んでいる講談社文芸文庫から出ている嘉村磯多の『業苦 崖の下』というタイトルの作品集は昭和三年から昭和八年までの期間の作品がたぶん発表順に並べられている。同箸に掲載された年譜によると嘉村磯多は大正七年に年上の静子と結婚したものの、大正十四年には妻子をほっぽりだしてちとせという女性と共に、上京してしまったそうだ。『業苦 崖の下』の中には、静子と共に暮らしていた頃の事や、ちとせと上京後のことと思われる作品が様々あるけれど、これらは必ずしも、出来事が起こった順に書かれたわけではなく、昭和三年の『崖の下』という作品は上京後のことが書かれているのに対して、昭和七年の『不幸な夫婦』という作品には静子との生活などが書かれている。ということは、モデルとなった出来事ととの間にあるタイムラグにはずいぶん差があるようで、つまり、ちとせ物に比べて静子物はいくぶん遠い過去なのだと思われる。静子物である『不幸な夫婦』やさらにさかのぼって自身の学生時代のことなども書かれた『途上』なんかはすこぶる惨めだ。惨めというのは、悲惨な目にあったりするというわけではなく、出来事に対する、主人公の行動の動機や心情が情けなくって惨めな感じ。他人に対して卑屈な感情を抱いたり裏切るような行動をとってみたり、これ以上ないくらいに、自身をモデルにしたような主人公の惨めな内面をさらけ出すのだが、あまりに出来すぎた惨めさにかえって、痛くも痒くもない気がしてしまう。

 

 

 


古井由吉は、大江健三郎との対談で、葛西善蔵にたいして嘉村礒多を良しとしていた覚えがあるのだけどどうだったろう。