悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日




仕事。 一週間が始まる。 『原っぱと遊園地』 『入沢康夫詩集』を少しずつ読む。 『入沢康夫詩集』は前に読んだときに比べてだいぶ感じ入るものがある。それが何かはよくわからないけど。 僕が今まで入沢康夫と口に出したことはごくわずかしかないので、すべて記すことができる。 以下、入沢康夫についての全発言集。
ーー入沢康夫って知ってる?
ーーいや、俺もあんまわかんない。
ーーあそこのブックオフ入沢康夫の『詩の構造についての覚え書』売ってたよ
ーーえ、買ってはない。



その日





仕事。
とんでもなく暑い一日だった。
ぼくは会社で朝顔を育てているのだけど、それは仕事なのかという疑問はさておき、朝顔もしおしおしていた。


入沢康夫詩集』を読んだ。
『原っぱと遊園地』も少し読む。


『原っぱと遊園地』の〈動線体〉というのが面白かったので、以下メモ。

動線体とは〈道から進化する建築〉のことだ。
普通は逆に考えるのだと言う。道は〈「つないでいるもの」〉であり、学校や市場、劇場、神社などの建築は〈「つなげらえれるもの」〉であるとして、〈僕たちは基本的には「つなげられるもの」の優位の世界に生きている〉。どういうことか。

通常は〈「つなげられる」〉ものが〈「つなげる」〉ために道が作られる。

目的(目的地)があってはじめて手段が選ばれたというわけである。だとすれば、「すべての建築は道から進化した」のではなく、当然「すべての道は建築があってはじめて必要になった」ということになる。


しかし、動線体はそうは考えない。


目的なり目的地が先に決まっていてそこを目指して歩いて行くのではなく、まず動き回っているうちに気に入った場所が見つかり、それが後で振り返ってみれば、目的地だったのかなと思う。比喩的な意味でも具体的な意味でも、実のところ、普段の生活とはそういうものではないだろうか。



ティム・インゴルド『メイキング』や貞久秀紀『雲の行方』を思い出した。結果や目的ではなく過程に目を向けるということだろうか。しかも目的や結果があって遡及的に過程があるわけではない。

歩くこと。道は歩くための場所だ。

『原っぱと公園』は建築論集でありあくまでも、つなげるものと、つなげられるためのものが最終的にはつながっていくことが目論まれている。

しかし、僕らはつなげることもつなげられることもなく、ただつながろうとさ迷い歩く。そこからただ歩くことへ。

図書館で借りた岡谷公二『郵便配達夫 シュヴァルの理想宮』の第2章は「単独歩行者の夢」となっている。 夢の単独歩行者。単独歩行者となること。