読書/日記
その日
仕事。
大学の同級生が結婚するということで、飲み会に呼ばれる。
え、結婚式呼ばれてないけど。
いや、呼んだよ
というから、確認するとたしかに呼ばれていてた。ぼくは常々、友達がいないとかほしいとか、そんなことばかり嘆いているけれど、悪いのは自分ではないか、と改めて思う。
それにしても、人生ずっと下り坂を歩んでいる身としては、昔の知り合いに会うというのは気が重い。これも悪いのは自分か。
南田由和『ひとり空間の都市論』をすこし読む。
その日
休み。
昨晩はいい飲み会だった。けれどもやはりすこし落ち込む。
駅から歩いて帰る。何度となく通った道、いつもは音楽を聴いていた。岡谷公二『郵便配達夫シュヴァル』のことが頭にあって、たまにはイヤホンを外して歩いてみようか、という気になる。
歩行は、夢想の揺かごだ。歩行の単調で、ゆるやかなリズムは、夢想を養い育てるのに適している。はじめての道を歩くのであれば、途中の風景の変化に心をうばわれることもあるだろうが、四六時中同じ道を歩くとなれば、もう眼は周囲には向かない。列車の揺れが眠りを誘い出すように、いつも変わらぬ歩行のリズムは、外界に興味を失った心の中に、おのずから夢想を誘い出す。日頃から夢想になじんでいるシュヴァルのような人間の場合はなおさらだ。歩行の一歩一歩の中から、夢想が芽を吹き、成長し、枝葉をつけ、のびひろがり、やがて深々と繁茂する。気がつくと、彼はもう夢想の森の中にいる。彼の心は、夢想によって完全に占められてしまっている。 岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』より
歩くことは、未知のものとの偶然の出会いを生むという考えがある。一方で単調な歩行というのもある。
新鮮で、観察者の目線で街を歩く。発見や出会いに満ちた能動的な歩行。そうではない、毎日くりかえされる退屈な歩行。 シュヴァルは、膨らませた夢想をただ夢想で終わらせず、長い年月をかけて巨きな理想宮を建ててしまう。
中学生のころ、友達がいなかったので登下校はひとりきりだった。ずっとそうだったわけではないのだけど、だいたいはひとりだったと思う。
そんなときはぼくも空想をめぐらせていた。たいしたものではない。前の晩に読んだ漫画ややったゲームの気に入った場面を頭の中で再現してみたり、二次的なストーリーを考えたりした。
ストーリーは日をまたいで続くこともあったし、さらに詳細な細部を決め込んでいくこともあった。誰にも話したことはないし、文章や絵にしたこともない。誰かにつたえたりする必要のないものだった。 ぼくの登下校のスピードはだんだんと速くなって、高校のときは自転車、大学は電車で通っていた。そのころになると、歩いていても音楽を聴いたりpodcastを聴いたりしていたので、あまりそのような空想はしなくなった。
ぼくは自分自身のそのような空想を慰めと呼んでいて、ある種の現実逃避なのだと思っている。
しかしシュヴァルの歩行と夢想ははるかに烈しい。現実逃避などではなく、夢想こそが現実だ。慰めより、よほど素晴らしい夢想。 力強く歩くこと。
- 作者: 岡谷公二
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