悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

その日

仕事。


電脳コイル』の磯光雄が新しいアニメの監督をするという。 『電脳コイル』はとても好きな作品だった。ぼくが中学生のときだった。当時は野球をやっていて、放送のある土曜日は6時まで練習があり、急いで家に帰ったのを覚えている。練習が終わった後もみんなとダラダラ話をしたりコンビニに寄ったりしていたけど、『電脳コイル』を観るためにそういったことをしなくなった。 当時は親がアニメに妙な偏見を持っていたというか、アニメを観ていると小馬鹿にしてきたもので、それが嫌だから実家のとなりにある祖母の家で観ていた。 当時なぜそんなに夢中になっていたのか、よくわからない。 それっきり見返したりしていない。

前に、『がきデカ』とか読んでそうだよね、と尊敬する人に言われたことがあり、つまりそれはぼくの元ネタとして『がきデカ』から影響を受けてそう、ということだと思うのだけど(いや、ホントはわりと明るいんです、ぼかぁ)、この前の休日にたまたまクレヨンしんちゃんの映画を観ていて、ああこれがおれの元ネタだ、となんとなく思った。

いったい自分がどういうものに影響されてきたか、ということは忘れがちで、自分史においてもいつのまにか偽史が出来上がっていることは良くあると思うのだけど、元ネタとして天沢退二郎だと思っていたものは自分にとって『電脳コイル』なのではないだろうか、ということもあるかもしれない。 いや、それすら偽史かもしれんよ。

そういえば、小谷野敦も千葉雅也も自分の年表を書けと言っていた。 ぼやぼやっとした自分に拘泥するより歴史の方に向かっていくことが必要だと思う。両者の意図することは、同じではないかもしれないが、年表をつくるというのもそうしたことの一つなんだろうか。


その日



仕事。

一日がとても長い。 にもかかわらず一生は短いというのはどういうことだろうか。 退屈でいい加減な一日でもずっと続けば良いのに、と思うのと一瞬で過ぎてほしいと思うのと、ともにある。

野村喜和夫『証言と抒情』において、石原吉郎ペシミストの勇気」などに登場する石原と一緒にシベリアに抑留されていた鹿野武一について、畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか』をひきつつ石原吉郎が鹿野武一の 行動に感じた高潔な倫理的理由はなかったことがうかがえると書く。
そして石原にとって鹿野は、〈他者というよりは分身、あるいは分身的他者ともいうべき存在だったのではあるまいか。〉とする。
〈このような傾向は、とりわけ青年期にはよく起こることだ。身近なひとりの他者を、自分に酷似した、しかも自分よりすぐれた存在とみなし、憧れや嫉妬の感情を抱きつつ、その者に同一化しようとする〉のだという。

分身的他者というのが何なのかいまいちよく理解できないけど、上記したような同一化をのぞむことはぼくにもある。対象にされる方からしたらいい迷惑だろうとも思う。身近な人ならなおさらだ。