悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

同じ夜に立ってる

「自信がなさすぎるんじゃないの?」
と言われた。
まあ、たしかにある面ではそうだ。と思った。
どうしてなんだろう、と訪ねた。
「ネガティヴすぎるんだよ」
と言う。


ネガティヴだから自信がないのか、自信がないからネガティヴなのか。わからないけど、関係はありそうだな、と思う。




僕はとても明晰な気分になった。べつにネガティヴだと言われても、自信がないと言われても、言われたところで改善されるわけでもない。けれども、同時に嬉しくも思った。人からそういう風に見られるということがわかるのは良いことだし、そもそも自分のことを見てほしい人に見られてると感じることは嬉しいことだ。


どうせなら、箸の持ち方がネガティヴだ、とか椅子から立ち上がるときの目の伏せ方が自信なさげだとか言われれば改善の余地もあるかもしれない。




僕は指摘した彼女にたいして、なるほどね、とか、そうなのかあ、とか言ったと思う。


正確には覚えていないけど動揺したりはしなかった。実は僕は知っていたのだ。自信なさげなこともネガティヴなことも知っていたのだ。


むしろ、あなたは横柄な人ね、とか不遜だね、とか言われた方がどきどきしてしまうし、してしまったこともある。




実際に自信がないのか、ネガティヴなのかはわからない。ある面ではそうだ。自信満々に振舞っても大丈夫な自信などはない。でも、自信なさそうに見られたり、ネガティヴに思われたりするだろうな、という自信はあるのだ。


そして、そのことを相手が慰めてくれるだろう、という自信もあるのだ。だから僕が感じた喜びは、相手からこう見られたいと思っていた見られ方をしたと感じたためだったのではないか。


その意味では僕はとても図々しい。


彼女はもしかしたらそのことに気づいたのかどうか。


「どう思う?」
と僕はしばらく後に彼にきいた。
「うーん、バレてるんじゃないか。そういうのってバレるよ」などと言う。


自分では取り繕っていると思っていても案外バレているということはよくある。けれど、彼女は気づいていなかったのではないか。駄目な行動をしている人とそれに対峙している人がいたとき、あるいはそれ以外の場合でも、一貫した優劣をつけた方がわかりやすい。あなたのズルい感情は、筒抜けだったのだ、となった方が教訓的だし、話のおさまりもいいように思う。


しかし、2013年4月2日に新宿の人のいない中華料理屋で酒を呑みつつ青菜の炒め物を食べていた僕と彼女の関係は、綱引きみたいにこっちが勝ってるこっちが負けてるというものではなかった。


物事はもっと、バラバラのものがバラバラのままそこにあり、ただたまたま同時にそこにいたということを根拠にひとまとまりのものにしてしまっているだけで、バラバラであることに変わりはないのではないのではないか。


「どうすればネガティブはなおるかな」
「さあ。別にネガティブでもいいんじゃないかな」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ。私はそう思うね。全然悪いことじゃないし」


彼女は豆苗炒めを注文して、サワーの薄さを嘆きつつ、客の入りを伺い、空いてるでしょここ、いつも空いてるの、という。


相手が自分を見抜いていると思ってしまう不遜さもあるのだと思った。


自分のわかりやすい取り繕いを見抜けないほど、相手は自分を見てはいない。僕も同じだ。僕も相手のことを見たりしない。無関心とか冷たいとかいうことではない。関心があっても、歩み寄ろうとしても、まったく見当違いな幻影に向かってるということだ。


僕たちは、僕と彼女が見ている僕と彼女と僕が見ている彼女と四人いた。


店を出ると、さらに僕が思う今夜の理想的な僕と彼女が思う今夜の理想的な彼女が加わった。6人のうちの2人は手を取り合ってどこかへ消えていった。2人は駅へ向かった。1人は店の前に立っていて、残った1人はぼんやりと店の前に立っている。