悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書/日記

6/6

 

仕事。
本日から梅雨入りで、終日雨が降ったり止んだりしていました。


エデンの園 楽園の再現と植物園』を少し読みました。


関口涼子『熱帯植物園』も少し読みます。詩として難しく感じる部分もありますが、熱帯植物園への興味的に面白いところも多いので嬉しいです。ですが、レイアウトが独特なので、引用するのは難しいでしょうか。詩文庫にも入らないでしょうし、手元に持っていたいです。

 

 


6/8

 

J・ブレスト(加藤暁子訳)による「エデンの園 楽園の再現と植物園」を読みました。

 

この本では植物園の成り立ちを中世における聖書の「エデンの園」解釈にみます。

「堕落」によって失われてしまった「楽園」は「大洪水」後にどうなってしまったのか。今もまだどこかにあるはずだ、という解釈は航海時代による新大陸の発見によって断念を迫られます。

新大陸の発見は、どこかにあるはずの楽園への夢を失わせたが、「神の業という本」という考えを後押しし、これが植物園へと繋がっていきます。

 

一六世紀初頭にビベスやラブレー、フィチイーノなどは、人びとが自然界の事実に目を向け、神の創造物を知ることによって、神を身近に感じるように奨励した。

 

「神の業という本」を読みこむ考え方は、「堕落」に際して自然界が毒されたとする見解を、一部変更することを意味していた。神の創造した植物や動物すべてに神が投影されているならば、被造物が腐敗しきっているはずがない。「堕落」によって自然は毒されたのではなく、分散されたのだとする見方が、アメリカ大陸の発見をともなって浮上した。

 

ここから蒐集するという目的ができます。
『世界一うつくしい植物園』にあったバドヴァ植物園が〈薬用植物の収集・栽培を目的として〉つくられたというのはこのような文脈だったということなのでしょう。キリスト教に関する知識があんまりにもないもんで困りましたが、面白かったです。

 


6/12

 

仕事。
いい天気になると聞いていましたが、涼しい一日。夕方にはにわか雨。


三位一体の神話』は「三六〈死〉との関係」まで読みました。
拁市と葦阿との対話の場面より拁市の発言。

 

それに、僕は、全集刊行の実務担当者として、故尾瀬氏の作物をたくさん改めて読み返したり初めて読んだりするうちに、それらにおける『自殺志向』ないし『自殺願望』の『底流』にもかかわらず、“僕『個人として』の問題追及”は、どうしても殺害犯人探しに集中するようになり、いま計らずも遠田の件にぶつかって、“『画期的な道』の問題”を実感しているのです。

 

拁市は読みを通して真相に近づいていきます。
読むことは真相に近くことなのでしょうか。私などは読む側から忘れていくばかりでちっとも何にも近づけませんから、そういう意味では、はったりで文壇に地位を築いた葦阿の人物造形のほうが理解できるかもしれません。葦阿は嘘がバレそうになって人を殺します。それでも金を金と理解できる程度には才能のある人物として描かれていまして、自分と重ねるわけにもいかないのではありますが。