悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

7/10

『文化亡国論』を読む。


芥川賞候補作の盗作?無断引用?問題が一部で話題。
session22での荻上チキの解説を聴いて作品に興味をもつ。芥川賞にたいする興味がぜんぜんない近頃(とても良い傾向)だったせいもあってか、ぜんぜん知らない話だったのだけど、面白そうな作品。

ところで、「美しい顔」というのは、被災地に行かずに被災地について書いた作品だというのだけど、それはどういうことか。
モデルのことをまったく知らずに書いたとして、そのことが想像力であり、良いことであると判断する読み手の想像力とはなんなのだろうと思う。

荻上チキはラジオで、みなさんも読んでみて色々考えてみたらいいと思う、というようなことを言っていて、その通りだと思う。

 

 7/12

 

本屋で立ち読みをしていたフェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』の一節。

 

一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。

 

詩人にかぎらず理想の自分というのはあって、こうあってほしいとかこうでなければならないという自分こそが自分なのだと他人にしめそうとする。とはいえ装ったところで
言葉以上に自分自身に張り付いた体が私自身をなんらかの形に定めてしまうのだけど、装いやすい場所、仮面を被りやすい状況というのもある。そのような状況で、こうありたいやこうでなければならない自分にあっさり乗っかってしまうことを良くないことだと思う。いや、本当の自分あるいは自分が実際に感じることなどというものがあるのかどうかは知らないけれど。

 

知らないけれど、石原吉郎は『一九五六から一九五八年までのノートから』で以下のように書いている。

 

自分の現実の姿を承認することなしには、私にとってはほとんどささやかな前進もありえないだろう。わたしにはこういう人間である。私はこういう人間である。私はこういう人間であるよりほかに、ありようがないのだという確かな認識以外の場所から、私は出発してはならない。ありえざる理想像の高みから、自分を見おろし、叱責し、絶望するほど不毛なことはない。そういう〈前のめり〉の姿勢から一時も早く立ち直ることこそ、私にとって今、最も必要なことなのだ。私が希望をつかもうとあせるのは、実は逃避にほかならないからである。