悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

7/13

 

ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(ちくま文庫)を読む。
騒がしいおしゃべり。
たくさん人が出てくる小説や映画が好きだなと改めて思う。
ゾラの小説なんかで賑やかな食事の場面が出てくるとうれしいし、チェーホフの戯曲も賑やかだから好き。『プレイタイム』が好きなのも賑やかだから。『紅の豚』も終盤の人がたくさんでてくるシーンが好き。映画だとわかりやすいけど、人がたくさん出てくるシーンでは、ある一人が画面を占める割合は小さくなる。きっと小説もそうだろう。ある登場人物に描写がのめり込みすぎるととうぜんその人物がページを占める割合が大きくなるんだろう。

映画や小説に限らず、人がたくさんいる場所は好きだ。週末の都心とかフェスとかお祭りとか遠くからみているのは好き。
好きだけど、じっさいに行ってみたら行ってみたらとても疲れる。うんざりした気分でもうとうぶん来たくないと思いつつ、やっぱ好きだな、という感じ。

自分はちゃんと人々なのだろうか、と劣等感なのか高慢なのか、なんとも言えないような感情を人混みのなかで思うこともある。

 

 

 

 7/16

 

 

連休終わり。
日曜日は半日仕事だった。

高慢と偏見
『収容所文学論』を読む。

オースティン『高慢と偏見』のおしゃべりの様子は楽しい。噂話や悪口を言っている人の滑稽さ。あるいは高慢と偏見の滑稽さ。それを読んで楽しくなっちゃう自分にも同じような滑稽さがきっとある。楽しいことだと思う。

なにかを笑うとき、同時に笑っている対象に自分を見出すということはどういうことなのだろう。言い訳にすぎないのだろうか。たしかに自らのコンプレックスを笑うようなものを笑うことは難しい。あえて笑うという自虐の仕草はありうるだろうけど。

私が『高慢と偏見』を読むとき、笑ってしまったあとに、笑った対象に自分を見出すのかもしれない。順番があるのは重要だ。

自分を棚にあげて人を笑うのは好まない。しかし、自分にも思い当たることがあるとき笑ないのかといえばそういうわけでもなく。

自分も吹き飛ばすような豪快な笑い。あるいは照れ笑い。