悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

ブログを目指して

良いブログと出会うことはあんがい難しい。

良いブログが一番良いとき出会うのはもっと難しい。

良いブログとはなにか。
それを説明するのは難しい。
もちろん、個人的な好き嫌いの話だけど。
どんなブログが好きなのかということ。
もちろんブログと言っても、いろいろある。


好きなブログの「好きさ」をうまく言えないもどかしさ、みたいのは日頃あたまの中にあって、本を読んでいるとブログに関するような文章は目につく。

ブログに限らずネット上で、文章を公開することについてのいくつかの文章をひきたい。

まず荒川洋治『日記をつける』より。
日記についてのエッセイ集で、ブログというものを公開される日記として捉えていると思われる。

 

 ブログの日記の文章は、厳密には書かれていない。思うままに自由に書く。第三者のチェックは入らないので、誤字も多い。他人の文章を引用するときでも吟味しない。誤りが多くなるが、どこまでも「自分」が基準なので、情報が正確である必要はないのだ。事実を創作してもよい。それがもとで人に迷惑をかけてもいい。匿名でもよいので、責任を追求されることもない。ともかく書いたままなのだ。 

 

厳しいが、次も厳しい。
稲川方人と瀬尾育夫による対談から瀬尾育夫の発言。
こちらはブログというよりは、ネット上で詩を発表することについての発言。

 

それから「詩のボクシング」なんかと並んで、たとえばネットで詩の雑誌を作ったりするでしょ。ネットは公開の場所として成り立つのかというようなこともやっぱり考えたりするんです。詩の公開それ自体の手続きとちょっと違うけど、この公開の手続きの問題も大きいと思うんです。ネットで詩を公開することに関しては僕はものすごく懐疑的ですね。これは公開の場所として成り立っていない。いくつかの理由はあるけども、一つは公開の場所には「境界」がなければならない。ここは出さない、ここから出すという「境界」がちゃんと出来てないと公開というのは成り立たない。

 

日記と詩であり、ぜんぜん違うものについての二つの文章だけど、いずれも、書き手と読み手の間にあるものの不在を批判している。
花村太郎『知的トレーニングの技術』においても、ネットとは直接関係ないが推敲について以下のように語る。

 

 執筆過程に他者の目が介入して、書かれた文章を客観視し添削をほどこす。こうなるとその文章はより多くの読者に理解されやすい、いわば〝社会化〟された文章になる。だから、ひとりよがりの日記をいくら書いても、他人に読んでもらえる文章が書けるようになるとはかぎらない。公表を前提にした文章はなんらかの社会的文脈を獲得せねばならず、そのために他者の視点からの推敲、フロイト流にいえば一種の「検閲」をうけねばならないのだ。したがって、よい文章が書けるようになりたいと思ったら、自分の文章の最良の読者になること。これが推敲トレーニングの真骨頂なのである。

 

荒川や瀬尾が批判しているネットの文章は社会化されていない文章だと言えるだろう。
詩の方が「作品」という意識が強いだろうから、評価が厳しくなるのも頷ける気がする。瀬尾の意見を受け入れるにしろ、反発するにしろ「詩」の世界で議論がされることなのだろう。
どうしても詩(あるいは小説でもいいのだけど)をネットで公開する、というとき、
荒川洋治はさらに以下のようにも書いていて手厳しい。

 

公開する日記が、ほんとうにその人のものなのかどうか。日記のことばはその人と、どの程度かかわりがあるのか。これも考えておきたいことだ。
日記は、特別な文学性や公共性をもつものは別として、自分にわかればいいもので、他人に見せる必要はない。他人に見せるということは、もはや、自分というものがなくなっているからだろう。自分が希薄化しているしるしだと思う。そこに自分があるように感じているとしても、それはまぼろしで、「自分があるような」気どりを、ただ示しているにすぎないこともある。ブログで自動記述のように、どんどん書いていけば、そのことばの量で、「自分がある」ような錯覚が生まれる。でも、それは「自分のない状態」なのだ。冷静になれば、他人もないが、自分もない状態であることに気づくことになる。

ひとりになり、自分に向き合い、自分があることを感じとりながら、静かに日記の文字を書く。最小の文字に思いをのせる。感じたことも、思ったことも、自分のなかにとどめる。だいじなことは、時間をかけて考える。こうした内側のひとときをもつことをたいせつに思う人は、ブログによりかかることはないように思う。


自分自身恥ずかしいような気すらする。
瀬尾や花村の文章はあくまでも、意識の高い人を対象にしている。詩を書く人だったり、知的生産をしたいと思っている人だったり。
ところが、荒川の文章は、日記についての文章で、その延長としてブログの批判になっている。ブログははるかに身近だと自分自身思っている分、辛辣に響く。


他者の目である。社会性である。推敲である。

 

好きなブログの好きさを上手く言いたいのだけど、難しい。もしかしたら、上記批判と裏表なのではないかと思っている。
日々の生活はいたたまれない。慰めが必要だ。

本当に、自分も他人もなければ、どれほど良いことだろう。