悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記じゃない日記

 7/26

 

ここ数日で何度か飲み会があり、憂鬱。
お酒の席じたいは嫌いじゃないのだけど、飲み会は好きじゃない。〈仲間を集めて 愚痴を並べて そんな身の上を酒で流すような真似〉が好きじゃないのかもしれない。たしかに職場の人で集まってその場にいない人の悪口を肴に酒を飲むのは気分の良いものではない。


とはいえ私自身性格が良くないことは自覚しているところで、人の悪口だってよく言っている。嫌なやつがいて、嫌なやつだなあと思っていて、ぽろっと口にしてしまったとき、周りの人も同じように嫌なやつだなあと思っていたことがわかったりすると、途端に悪口に花が咲く。するとなんだか不憫な気もしてきて口が重たくなってしまう。いや、なんというか、私は、きっと悪口を言ったりすることが好きなのだ。けれども同時にそういう自分が嫌いでもあるのだ。
人のことを嫌いになるとき、自分自身をその相手に対して見ていることは多い。

 

 

あるいはまったく別の話かもしれない。先に、お酒の席じたいは嫌いじゃないと書いたけれど、はたしてどうか。嫌いじゃないというのは、わりと好き、ということではなくて好きでも嫌いでもないということで、お酒の席というのが、賑やかな場所ということであるのならば、賑やかな場所は好きだ。それは「お酒」と関係がなくてもいい。

 

お酒を好きな人はたくさんいて、お酒が積極的に嫌いな人もけっこういる。お酒というか、酔っ払いであったり、酒席であったり。

 

お酒は強力だ。デカダンな魅力がある。ハードボイルドな感じもする。カッコいい。カッコいいものというのは、反対することもカッコいいのだ。カッコいいことに反対することはカッコいい。

 

だから私も、酔っぱらってみたりする。お店を出て数人でゾンビになってふらふらと駅まで歩く夜は良い夜だなと思うことだってある。反対に生涯素面の気分で反対してみてもする。けれど実際はどうでもいい。お酒にはあんまり関心がない。これはたぶん相対的な話だろうけど。

 

どうでもいいことは悲しいことだ。無理に好きになったり嫌いになったりする必要は、何事だって、ないはずだけど、好きになったり嫌いになったりしたいものごとはある。


一生懸命聴きかじっていたら大好きになるCDだってあるし、反対反対で気分はもう戦争みたいなことだってあるだろう。しかし、好きとか嫌いとかどういうことだろう、とふと立ち止まって考えてみると、自分にとってはどうでもいいことだったと思うことがある。

 

私の憂鬱やいらだちはもしかしたら、自分のこのどうでもいいというような投げやりな気分に対してなのかもしれないと思う。

 

みんなが好きなものにたいしてどうでもいいと思うことはなんだか感度が悪いみたいだ。感度が悪いことは悲しい。

 

好きなことは好きだし、嫌いなことは嫌い、とすっぱり楽しく過ごせればそれでいいのだし、周りと比べて自分の感度がどうだとか、まったく気にすることではないのだけど、気にしてしまう以上、気にしてまうのだから、自分でも面倒だと思いつつも悶々とした気持ちの夜は意外と深まらない。