悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

09/20

 

雨が降る。気圧が低いのだと思う。
体調が悪いような気がする。基本的にいつも仕事に行く前は体調が悪い気もするけど、気圧は引くようだから気圧のせいにする。
自分を責めて憂鬱な気分になるのも辛いので、なにかのせいにしたいことは多いのだけど、あんまり人のせい世の中のせいにしているとそれはそれで気が沈んでしまう。その点、気圧というのはとても便利だと思う。気圧に感情や姿形がなくてよかったと思う。


とはいえ、仕事が終わればわりあい元気で、小谷野敦久米正雄伝 微苦笑の人』を途中まで読む。
伝記で、文学青年が喜びそうな批評は書いていないのだけど、著者自身のことがときどき書かれる。
漱石が死んだときの様子について、

 


漱石の死は悲しい。だが、酔いすぎてしまった。久米は、二十五歳になったばかりであった。
私は、同じように、二十五歳になったばかりの正月三日、大学院の教授である芳賀徹先生の自宅で新年会に参加した。芳賀先生は、その三年前に、漱石の語「絵画の領分」を表題とする分厚い著書で、大佛次郎賞を受賞していた。前年の、入学時のガイダンスには、芳賀先生の友人として、詩人の大岡信が来ていた。その頃の研究室はひときわ華やかで、年若な先輩たちが次々と著書を刊行していた。私は、その華やかさに酔った。酔って、久米と同じようなことをした。だから、のちに『破船』を読んだ時、久米のこの時の心理を理解できるのは、自分しかいないくらいに思い込んだのである。


と書く。「破船」とは、久米の著作で、漱石の死後、漱石の娘筆子と結婚しようと思うのだけど、その母を怒らせてしまい、けっきょく友人の松岡譲に取られてしまうという出来事を小説にしたもの。
作中でこうした著者の個人的なことを書いた感想はあんまり出てこないけど良い。あんまり出てこないから良いのかもしれない。
華やかさに酔ってしまうというのは微妙な感情だと思う。芋くさいようでちょっと恥ずかしいようにも思える。その微妙なことをすくい取っている。
他に、

 


久米の通俗小説を全部読んだ人というのは、恐らく誰ひとりいないだろうから、私が最初になるはずである。それは、苦痛がマゾヒスティックな快楽に変わるのではないかという錯覚を起こさせる態の事業だが、書く方もさぞ辛かったろうと思う。その苦痛の中から、「私小説と心境小説」や「純文学余儀説」が現れたのだということは、理解しなければならない。


というのも、良い。著者は私小説も書いている。そして久米の私小説以外は高級な通俗小説だという考えに共感を覚えているようなことを別の本でたびたび書いている。
全部読むというのは大変なことだ。大変なことをしないとわからないこともある。久米の論を久米のたくさんの著作を読んで、作者の気持ちを考えている。その気持ちに当然著者の気持ちも混ざってくる。全部読むという迫力も相まって感動的。