悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/10/09


仕事。たいへん忙しい。病気でひとり辞めることになり、その分の仕事が降りそそぐことになった。今日や明日、まあ明後日くらいはたぶん大丈夫。その次の日くらいから暗い気分になりそう。しばらくサボりもせず働いているので、仕事中に必死に働くなんて時間の無駄なんじゃないかと思えてくる。
帰宅後、『現代詩文庫44 三木卓詩集』を少し読む。

 


2018/10/10


仕事。忙しい。今月はずっと忙しいかもしれない。辛い気持ちになる。壁だとしよう。この忙しさが壁だとして、乗り越えられないんじゃないかと憂鬱な気分になる。いっぽうで実は簡単に乗り越えてしまうであろうことも知っている。ほんとうに恐ろしいのは、乗り越えたと思った壁の先になにがあるわけでもないということだ。壁なんて嘘で、どこまでも見えはしなくても平坦なのだ。行きつく先はどのみち死だとして、そこさえくすんで見えたとして、至るまでに色彩を感じないことが、気を沈ませる。だいたいたいして忙しくないのだし、あまりに体力がないように思う。
帰宅後、三木卓詩集を読む。それと北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を少し読む。


ぼくにとって三木卓と街を歩くこと、これは新しい次元の経緯を手に入れることなのだった。二人の失業の時期が重なっていた頃や一緒にアルバイトをしていた頃、ぼくらはよく歩きまわったものだったが、そのたびんいぼくはかれによって世界が拡大する感覚にひたされつつまれていた。ぼくらの散策に特別の仕組みがあるわけではない。街並を通り、古本屋をひやかし、喫茶店で腰をおろす、その程度のことだったが、かれと歩いていると見なれた空間が新しい表情をもちはじめる。街のかたち、ひとびとの仕草、いろいろな物たちへのかれのちょっとっした発言によって眼の前の世界は再組織され、そのメタモルフォーゼの渦のかにいつの間にかぼくは吸いよせられる。(アンゲルス・ノーヴス 三木卓によせて/ 久保覚


わたしも街を歩きたい。歩きたいといつも思っているけど「誰か」と歩くなんて考えもしなかった。いや、誰かと歩いたこともあったし、最近も鎌倉を歩いたりしたわけだけど、それでもそんなことしたことないような気がするのは、今夜のせいなのか。あるいは別のことのためなのか。

 


2018/10/11


仕事は辛いし、やる気ができない。本日は残業代もつかないのだとか。
帰宅後、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』と北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』を少しづつ読む。
『ぼくの女性詩人ノート』より、川田絢音について書かれた章。
〈人はなぜ詩を書くのでしょうか〉とはじまる。
〈ぼくの場合、或る感情というのは、たいてい〈悲しみ〉です。〉
わたしは悲しいことをうまく言葉にすることが出来ないけれど、日々は悲しい感情であふれているので、引用の少し後に、
〈人間は根が暗いっていう本性から逃れようったって、そりゃムリだよ。ネアカなんて嘘さ。ネクラこそ、人間の輝かしい本性なんだ。人間は、ぜったいネクラであるべきなんだ‥‥‥〉
と明るいような口ぶりで書かれていて、うれしくなる。

 


2018/10/12


まったく憂鬱。夜、霧がかかっていた。早く夜がきたよう。
北村太郎『ぼくの女性詩人ノート』をすこし読む。すこししか読まないからぜんぜん読みおわらない。つまんないと思った本は途中でやめてさっさと次の本を読んだほうがいいですよ、と人には言うけれど、わたしはいつまでも読んでる。つまらないわけじゃないけど。