悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記じゃない日記

11/01


細長い雲がたぶん東西に伸びていて、珍しい感じがしたので写真に撮ろうと思ったけどやめて、ラジオを聴いていたらその雲のことを話していた。遠いところでもみえていたらしい。ネットでも話題になっていた。写真に撮るのをやめたのは、誰かに話すことをやめたのとほとんど同じに意味だったのだけど、多くの人が写真に撮り、誰かに話すことにしたのだ。自分の経験したことを人に話したりして共有するのはどういうことなのだろうか。ラジオでは、なんだか人々と共有することは良いことのようだった。こっちでも見えますよ、見えてます、不思議な雲が見えましたよ。
別にひとりじめをしようとしたわけではないとはいえ、日の当たらない感情を見た気がした。

 


11/02


遊ぶ予定が急きょ中止。空虚な気分になる。空虚とは言いすぎかも知れない。
だいたいのことについて言いすぎたという気分になる。
もちろん、誰かと話をするときわたしはいつも余計なことを言いすぎたのではないだろうかとあとあと後悔するのだけど、それだけではなくて、悲しいというにしろ嬉しいというにしろ、いや、面白いとか辛いとかとにかく今どんな気分?と誰かに聞かれたとしてなんと答えてもしっくりこない。
それは別により繊細なことばが必要だということではないと思う。
悲しいと思うわたしの悲しさはことばにするほどのものではないということで、なにも話さないことにおいてのみ、自分自身の中途半端さやあいまいさ、ぼんやりとしたことに耐えられるのだ。
きっと耐えなくてもいい。わたしはもっと中途半端であいまいでぼんやりとして、誰某と区別がつかなくなりたいと思うこともあるのだし、どちらがいいというわけでもない。
なにか話しだすと結論めいた方向へ勝手に歩みだすものだけど、ある意味ではなにも考えていないからこそ歩けるということでもあるはずで、まあぼんやりしている間に一日は過ぎてしまう。


11/03


休み。一日家にいる。本など少し読む。
読書日記などと言っているので、読書日記を書かなくてはという気になるのだけども、はたして読書日記とはなんなのか。一冊ごとに読んだものの感想を書いたらいいのか、あるいはただ読んだ本のリストを書けばいいのか。
〜べきか、という問いはおかしくて、誰に強制されるものでもないのだから、勝手にすればいいといわれればもちろんそうなのだけど。


バケツに水をためてそこに月を浮かべたい。ここしばらくそんなことを思っていて、何度か実行してみるもうまくいかない。夜空は晴れていたものの、月などなくバケツのなかをのぞいてみても真っ黒で、これではかりに月がでていてもまったく見えないのではないだろうか。

ふと思ったが、レッスンというのはことばは良い。練習でも良いのだけど、レッスンの「レッ」がlet’s を思いおこさせるので明るい気がする。
人と上手に話すレッスン。規則正しく寝て規則正しく起きるレッスン。余計なことを喋らないレッスン。残念ながら、その場その場でレッスンなく正しい振る舞いをすることはできない。バケツに水をためてそこに月を浮かべるというのは感傷なのだけど、感傷すらレッスンが必要なのかもしれない。


11/04

 

むかしから読書の楽しみといわれてきたことの中身を考えてみると、その大きな部分は、長い文章なり、厚い書物なりの中に、自分の楽しめる〈断片〉を発見し、くり返し味わうことの充実感を指していたといえます。すでに述べたように、長い作品は一時に全文を頭に入れることはできません。読書の途中における〈現在〉は、常に目の前にあることばです。〈全体〉はダイジェストされたあらすじとして捉えられているとしても、表現された原文そのものを味わうことができるのは、目の前のページであり、そこに展開していることばです。

『文章表現四〇〇字からのレッスン』梅田卓夫(ちくま学芸文庫


ちかごろ、長い小説をどう読んだものかとあれこれ思っていたのだけど、腑に落ちる一文。