悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/11/12

仕事。
起きるのがおっくう。週の始めからこんなんでいいのか。週の始めだからなのか。
家に帰ってきてもやる気がでない。少しだけ本を読む。
ブログは、まず日記を書いて何日分か溜まったら人にみせられないところ削ったりして公開しているのだけど、近頃はカッコ書きで言い訳めいたことを書いていて気持ちが悪い。過去の、というか書かれたわたしと距離を取りたいと思ってしたことなのだけど自己注釈だし、自己注釈ほどひどいものはないのでは、という気がする。

 


2018/11/13

仕事。


2018/11/14

中学生のころ、夏休みの宿題で作文があった。読書感想文か夏休みの感想文か、どちらかを選ぶというふうになっていた。先生が悪い例として、「いまわたしは夏休みの感想文を書こうと思っているが、書くことがない」式のものをあげていたことをふと思い出す。良いか悪いかは別として書くことがないような気がしていると(実際に書くに値することが当人に起こったのかどうかはまた別問題として)「書くこと」そのものについて書いてしまいがちというのはあるかもしれないと思う。というか、日記に書くことがないのでそうなっている。


一日をぼんやり過ごしてしまい鈍感になっているせいだろうか。


よくよく考えてみると、本を読むことだって同じかもしれない。ある一冊の本を読んでも、ぼんやり読んでしまうとその本について書こうと思っても書くことがないような気がしてくる。すると、本を読むことについてや、空疎な文学論みたいなことばかり思いついてしまうのだろう。
これは変な話で、それなら別に読まなければいいのだし、わざわざ本について何か書く必要はないのだ。
と、書いていて自分で自分のことを頭が悪いと思うのはこういうときだなあと思う。
考えがホップステップジャンプの容量ですぐさま「どうせ地球も滅びるし」みたいなところに行きついてしまうのだ。
どうせ地球も滅びるのはそうなのだとしても、そのことを理解したところでなにも解決しないのだから、ものを考えようとするのならその手前にどこか踏みとどまるべきポイントがあるのだろう。
しかし、それにしたって、スリーステップで訪れる地球滅亡のその時はいつだって美しいイメージだ。


2018/11/15

何冊かの本をちょこちょこ少しずつ読む。評論や入門書の類を読んでいると、いまさらなにを読んでいるのだろうかと鬱屈とした気分になるので、カルヴィーノレ・コスミコミケ』を読み始めるがあまりのれず。
とはいえホラ話の面白さというのはある。地球に接近した月に軽やかに飛び移る男の描写などはたのしい。
暗くなってくると、もう本など読む気になれず、ちょうどアニメ『電脳コイル』がプライムビデオで観れるようになっていたので、何話か観る。
すごく久しぶりに観たのだけど、わたしの好きな街のイメージはほとんどこのアニメなんだなあとあらためて思う。


2018/11/16

仕事。晴れ。とても晴れていた。昼間は暖かくて、上司が、眠たくなるねと言った。わたしはどこかへ行ってしまいたくなる陽気だと思った。月並みとはいえ、思ったのだから仕方ない。逃亡にふさわしいのは雨より晴れだと思う。
本はちっとも読まない。荒川洋治『心理」を少しだけ読む。


2018/11/17

〈いつかなんてずっとこない 今度だって結局こない こんな風にちゃんと気にしてることなどもう向こうには届くはずもない〉(疎遠/TOMOVSKY
あの人はいまなにをしているんだろうかと思う。
失くしてしまったと思えるほど豊かな人間関係なんて築いたことはないけれど、それにしたって〈今どうしてる? 気になるぜ〉(street dream)。
あの人はきっといまごろ楽しく暮らしているんだろうな、と思えるような人はまあいいのだけど(よくないのだけど)、あんなんで大丈夫なんだろうか、と心配になってしまうような人もいて(余計なおせはとはいえ)、こちらに心配だけを残してどこかへ行ってしまったことを思うと頭にくる(わたし自身になのか、相手になのか)。
カルヴィーノレ・コスミコミケ』をすこし読む。