悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

2018/12/06

休み。と思いきや半日仕事。


千野帽子『読まず嫌い』をすこし読む。
タイトルからして、読んでいない本についている話なのかと思った。わたしは本が好きな気でいるものの、実はあんまり読んでいないのでそのことを慰めてくれる本なんじゃないかと思ったけれど違った。
たしかに「はじめに」ではいろんな本の嫌なところがあげられていて、〈青春小説の主題なんてだいたい「他人に理解されないこと」だ。それが文学になってみんなに読まれている。ということは、お前ら主人公どもの悩みなんてみんなに理解されてるじゃないか。そういう甘え上手なヤツがモテるんだよ結局。〉という一節なんかは嬉しくなっちゃう。
とはいえ、それ以降の章では読んだという話が書いてある。がっかりした気分になったのだけど読み進めると面白い。かつての名作とか、作品が収録される形態とか広い範囲の話もする。放りださないで良かった。
読まず嫌いというのは食わず嫌いみたいなことだ。読んだか読んでいないかで言えば読んでいない状態。著者は読まず嫌いだった本を読んだら好きになる。読まず嫌いにたいして読んだ好きという感じ。本を読む前と読んだあとで世の中の見え方が変わるとか読んだわたし自身が変わるというほど大げさなことではないだろうけど、読んでいない状態では嫌いだったものが読んだら好きになるので、嫌いから好きにかわっていてとても良い感じ。しかし、好きばかりならハッピーというわけでもないらしく、息が詰まるというか退屈したりする。そこで名作。名作は名作であるということで読むきっかけになるという。

 


2018/12/09

二日間日記書かず。
大島一雄『人はなぜ日記を書くのか』(芳賀書店)の「Ⅰ 日記とは何か」は〈ある文章が日記でありうるためには〈日付け〉が必要とされる。〉とはじまる。(日記というものを日付と公開性非公開性という観点から論じていく。)
日付が記されるということは、記された日付に文章が書かれたということを必ずしも意味しない。文章を書いた日付ではなく、その日付の出来事について後から書かれた場合もあるからだ。
文章はさもひとつながりのものとして書かれたような姿でわたしのまえにいるわけだけど、実際はそんなことばかりではない。書かれた対象が長い間頭のなかで書かれないままぼんやりとしたまま浮かんでいる状態を考えにいれなくても、書いたものは書き直され書き始めたときとはまったく別のものとなることはある。わたしの書いた文章があなたに読まれるまでに、書き間違いを正すのはわたしだけとは限らないのだし。
わたしにとって日記の文章はたとえ記された日付について後日(たとえば翌朝)書かれたのだとしても、書き直されたり書き加えられたり書き減らされたりする文章とはべつのものに思える。装いにすぎないのだとしても、〈作品〉ではないと思ってしまうのはそのようなものであると夢想するときであって、かすれたり濃くなったりする筆致を思い浮かべてしまいます。
土曜日には、原美術館へリー・キットの展示を観に行った。帰りに新宿で『ア・ゴースト・ストーリー』を観る。
上の文章に筆致などと馴染みのないことばが使われているのは、日曜日にパスカルキニャール『ローマのテラス』を読んだせいでしょうか。17世紀の版画家の話で47章の短い文章で構成されている。日曜日にはほかに千野帽子『読まず嫌い』も読む。


2018/12/10

とても寒い一日だった。これ以上寒くなるなんて信じられない。シベリアはもっと寒い。
何冊かの本をちろちろ読む。ちかごろ長谷川四郎をひととり読みたいと思っていて、全集の一巻を「シベリア物語」から読み始めてみたのだけど、つづくかどうか。他にも興味がいろいろな方向にむいている。ただ長谷川四郎の文章はやっぱり好きで、今日はシルカを読んだのだけど〈ぼくら〉という言い方なんてささやかなんだけど良い感じ。