ぼくたちの日々とか
冗談ばかりで 楽しすぎて
体の奥まで 甘えたりして
ありえない夢を見て 日々が過ぎる「ぼくたちの日々」/スガシカオ
ぼくらの日々
そのころ、ぼく自身は最悪の気分だったのだけど、ぼくらとしては気分の良い日が続いていて、本を読んだり音楽をきいたり、ときどき散歩をしたりして過ごしていた。
信念などなく、ぼくらは増えたり減ったりすることもあったけど、それはその数がその時々で一番ちょうどいい数だということのようだった。
渋谷
渋谷の駅から少し歩いたところにある古いマンションで、においが壁についてしまうといけないからといって、狭いキッチンの換気扇の下に肩をぶつけあいタバコを吸ったりもした。
グリコ
古いマンションの駐車場や周辺には立派なエンブレムを誇示した車がよくとまっていたのでぼくらは場違いな気持ちになることもあった。それでも、夜になると若い男女がじゃんけんをして、パーで勝ったらパイナップルで六歩、チョキならチョコレイトで六歩、グーだとグリコで三歩進むという遊びをしてきゃっきゃしているのがベランダから見えた。
「グリコっていうんだよ」とぼくらは若い男女が楽しんでいた遊びについて話しあった。
グリコなんて遊びの存在はすっかり忘れていて、いとこの子どもと遊んだときにグリコのやり方を教えてあげたのだけど、いとこの子どもは小学生になったというのにルールを守って遊ぶということにまったく無頓着で、「チヨコレイト」と言っているあいだに20メートルくらい短い足をばたばたさせて移動してしまう。もちろん六歩で20メートルを歩くわけではない。「チヨコレイト」と言っている間は移動しても良いと理解したのかもしれない。呪文を口にする間だけは無敵でいられるのだ。無敵ならいくらだって遠くへ行ける。
思い出
ぼくらはいろんなことを忘れてしまい、ときおり少しだけ思い出す。ぼくらにとって思い出はひところ目の前を横切る影だ。
それは大事に掴んで離さずじりじりと体力を消耗させつつ引き寄せないかぎりすぐに姿を消してしまうので、ひ弱なぼくらにはたとえ力を合わせたとしてもしっかりと受けとめることは難しかった。
夏の川辺で、ぼくらは座ったり立ったりしながら行き交う影を見つめたいと思った。
夏の川辺
ゆるやかにそしてなんとなく、気がつけば良い感じの日々は過ぎていき、ぼくらなどと称することも恥ずかしく感じてしまうようになっていった。
彼らはいまではすっかり上手に一人称なきぶんで、自然主義的なセックスにうつつを抜かしては、止まらんロマンがたまらんなどと言って過ごしている。
夏の川辺を見いだすことが出来なかったことはとても残念に思えた。けれど、夏の川辺とはそもそもなんなのだろうか。
おだやかで遮蔽物のない平地の川辺は、夏になるととても暑い。どこにも影など見当たらず石がきらきら光っている。川面も日差しをうけて輝いている。真っ白だ。