悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

12/11

仕事。たいへん。 
長谷川四郎「馬の微笑み」を読む。
ソ連の煉瓦工場で働く話。語り手たちが働くのはしょぼい工場。〈若し「煉瓦製造技術発達史」というような本があるとすれば、その第一番目の挿絵に、この工場が出て来るように思われた。〉 
ノルマは他の機械化された工場にあわせるので大変。〈人力以外はせいぜい馬くらいのものだった(‥‥)〉。でも〈私たち〉(この短編は〈私〉ではじまりいつのまにか〈私たち〉に変わる。)はそのことを好いていたという。 

全部が全部、機械化されるのは恐らく目出度いことだろう。しかし、部分的にしか機械化されないで、機械と機械の間に人間が挿入されると、彼の労働は機械に追われて機械を追いかけ、多忙を極めて、まことに味気ないものである。その機械を動かすものは、彼ではなく、彼以上の、権威ある存在なのだから。


わたしもなんだかわからないものにせっつかれて毎日働いているわけだけど、根が怠け者なので、勤勉というのがもう嫌だ。自分で自分を動かすのも嫌だ。 
世の中には勤勉な怠け者というのもいて、一生懸命怠けないことを駄目なことのように言ったりするけれど、わたしのような怠け者な怠け者からすると、ただただ勤勉な人と同じに見える。 

 

12/17

いろいろあったので疲れる。日記にはいろいろの中身を書くべきなんだろうけれど、まったくうまく書けない。うまくかけなくてもかまわないのだとしても書けない。そもそも何かをうまく書いたと思えたことなんて一度もないのだけど、なにも書けない。 


『批評の解剖』は例によってさっぱり。解説によると前提となっている考え方として〈第一に文学の自律性と、それに付随して文芸批評が取り扱うのは文学自体であって文学の背景にあるなまの直接体験ではない、という考えがある。第二にさまざまのイデオロギー、歴史感にもとづいて作品を裁断することを文芸批評における決定論と呼ぶフライの立場は、この意味で反イデオロギー、非歴史主義と言えよう。第三にフライは文学の全体像を示す壮大な体系を築く一種の文学形態論を究極目標とし、作品の価値評価を回避する〉のだという。 
趣味判断とは別ものだということになる。 
趣味判断を通じてなにか大きなものを語ろうとするときの危うさをあらためて思うというようなていどにはわたしども素人にも積極的な受け取り方ができそう。 


長谷川四郎「ラドシュキン」を読む。
『シベリア物語』のうちの一編。ラドシュキンという男との交流を描く。シベリア物語はシベリア抑留を描いた作品なので、主人公は強制労働をしており本など読んでいる暇はないのだけど、「掃除人」ではゴミ捨て場からチェーホフを拾って喜んだりもする。「ラドシュキン」でも主人公は本を読む僥倖をえる。
煉瓦工場で働いている主人公は、とうぜん外を出歩いたりする自由はない。ところがラドシュキンから主人公は馬係りとして勤務前後に工場と厩のあいだを馬を運ぶ仕事を任される。工場と厩は離れているので外を出歩くことができる。その途中で主人公は本屋を読み立ち読みする。 

私はそれから毎日、馬から降りては、この「一八一二年のモスクワ」を少しずつ読んでみた。

そこまでして本など読みたいだろうかなどとぼけたことを思ってしまったのだけど、そうだからこそ読みたいということもあるのだろう。立ち読みする主人公に〈完全な無関心〉を向ける店主の姿も良い。


12/20

仕事。年末のせいではないのだけど、今年いっぱい忙しそう。 
枡野浩一『結婚失格』(講談社文庫)をぱらぱらとみていたら次の一節をみつける。
著者は連絡をとれなくなってしまった佐々木あらら氏にたいして、
〈いやしくも小説の合作をしている仕事仲間なのだから、メールの返事を一切寄越さないのにこちらから電話したり、家に押し掛けたりするようなことはしたくないと、心のどこかで思っていました。それは僕が彼とのきずなを自ら断ったことにもなるのだろうか、もしかしたら彼は、「メールではなく電話がかかってきたら枡野さんと話そう」という賭けに出ているのかもしれない、そんなふうに突然〉思う。 
これだ、と思った。仲違いして一年近く連絡のとれなくなってしまった友人がいる。何度かLINEを送ったのだけど、無視。電話してみようかと思った。でも電話はしなかった。 
主人公は電話をしたのだけど、結局つながらない。わたしは電話をしなかった。本のなかで電話が繋がらなかったからわたしもまたそうなることを恐れてしなかったわけではない。もしかりに相手が出たとして、なにを話せばいいのかわからない。 


12/24

22日、23日は日記書かず。 
本日休み。
ベイビー・ドライバー』『子猫をお願い』を観る。 
どちらもサイコー。 
子猫をお願い』は行き場のないオク・チヨンに手をさしのべるぺ・ドゥナが必ずしも善意からだけからではなくて、自身もまた抱えてるものを解決するために行動するところがとても良い。主人公たち五人が強風の中を歩くシーンとぺ・ドゥナが面会に行くシーンはいつ見ても泣いてしまうようだ。 


連休中に読んでいた増田みず子の『シングル・セル』もとても良かった。小説の感想というわけではないのだけど、静けさが良いイメージとして描かれていて、自分も静けさというのは良いものだと思ってるなあと思う。

わたしが人生でもっとも静かなところに住んでいたころ、ひっそりとした夜の台所などいまでも良いイメージで思い出される。と書いてみたのだけど、そういえば、静かなところというのは単純に周囲に雑音がないということなのだけど、自分自身は静かではなかった。自分自身というのはあんがいうるさいのだと思った記憶もある。 
寺山修司の『戦後詩 ユリシーズの不在』という本のなかでマヤコフスキーの詩が引用されている。 
〈ほかのひとの心臓は胸にあるだろうが/おれの体じゃ、どこもかしこも心臓ばかり。/いたるところで汽笛を鳴らす〉 
数少ない共感で読むことができた詩だと思う。そのころ、動悸のようなものがひどくてふと地震だろうか、と思うと異様にばくばく鳴っている自分の心臓の音だと思うことがあるくらいで、ちっとも静かでいることができなかった。 静かなところにいたぶん余計にうるさかったのだと思う。本当はいまでもうるさいのに、周囲も騒がしいのでいくぶん穏やかなようでもある。