悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記01/06〜01/08

1/6

休み。だらだらと過ぎていった。 
長谷川四郎「細部の拡大」、ホフマン「砂男」を読む。
「細部の拡大」は細部を拡大しているというより、「登山帽の男」の前半を語り方を変えただけの変な小説。 

「砂男」の主人公はどうものぞき見ることでおかしくなってしまうかのようで、そのはじまりは主人公が書簡のなかで語る〈のぞき見しているところをみつけられ、コッペリウスにお仕置きをくらったわけだ。〉というところにあるだろうか。 

ところで、小説を読むというのも、どこかしらのぞき見めいたところはあるかもしれない。物語を読むときたいていの場合は物語の現実よりは外側から読んでいるわけだし。 
ある種の小説はストーリー自体にゴシップめいた部分があり魅力でもある。そのような卑下た愉しみにどこかやましさをおぼえたりもする。人の生活をこっそりのぞきみること。とはいえ、いろんな欲望が肯定されるのならそんな愉しみもあって良いのだろう。

日記などは小説よりますますのぞき見めいてくる。 
日記ははなから読まれるために書かれたものとそうでないものとがある。後者においても、のちのち作者同意の上で出版されるものもある。 
著者からまったく同意されず、死んだあとに勝手に出版されてしまったものもある。そのような日記を読むとき、人は著者のことをどんなふうに考えるのだろう。それとも、文学とされる文章を読むとき人は文章だけを読むべきなのだろうか。 
あるいは逆に、「書く」というときに他人に生活をのぞかれたいというようなよろこびもあるかもしれない。 
いずれにせよ日記にたいして、書かれたわたしについての距離感を狂わせられるような錯覚を、わたしは抱いているのかも。 


そういえば、最近読んだ『名もなき王国』という小説のなかに、生前にはあまり評価されなかった小説家が出てくる。小説家は死ぬ前に、自身が残した創作ノートを自分が死んだあとに処分してほしいと頼むいっぽうで、自分自身で処分せずいつか誰かが読んでくれるかもしれないということを期待していたりする。読まれたくないけど読まれたい。といってしまえばなんだか簡単なことのようだけど、揺れ動く微妙な感じというのが日記や手記にはあったりするのだろうか。

 


1/7

仕事。 
わたしはやましい気持ちでいっぱいだ。 
他の人もそうなんじゃないかと、ひそかに思っている。だれかを過剰に攻撃したり擁護したりすることも、根底にはやましさがひそんでいるのではないか。 
そんな話を本で読んだ気がする。なんの本だったかは忘れてしまったけど(この本じゃないか、というのがあったら教えてほしいです)。
ある面では、人よりとても劣っているわたしでも、だれかと比べて恵まれている部分もあるのだし、それを人から指摘されたらなにも言えなくなってしまう。 

 


1/8

仕事。晴れ。近頃晴れが続いていると思う。
今月、あまりお金を使わずに住んだら、『団地図鑑』と『思考としてのランドスケープ』を買おうと思う。 
そういえば、日記に、今後こうしようああしようという希望のようなことをあんまり書いてこなかったけれど、そういったことも書いたら良いのかもしれない。明るい気分になったりするだろうか。 


昨年、映画『それから』を観て、タイトルは夏目漱石の同名小説からきているとの話を聞いたので読んでいなかったし読んでみようかしらなどと思ったのだけど、『三四郎』も読んでいないしそっちが先かなと本を手にとってぱらぱらしているうちに年があけてしまい、読もうと思ったことすら忘れていたのに正月明けで頭がぼんやりしていたためか不意に思い出したので読むことにした。『三四郎』のほうだ。 
三四郎は熊本から東京へでてくる。いろんなところへ行くのでいろんな地名など名前が出てくる。これは『三四郎』という小説じたいに観光案内的な役割があったからだとどこかできいた記憶があるけれど定かではない。 

ねんのため、ウィキペディアで調べてみる。わたしの知ってることはみなどこかで見たり聞いたりしたはずのことだけど、いったいどこで見たり聞いたりしたのか思い出せないことがたくさんあって、わたしの場合、そのような知識はちょっと危うい。 
頭にぱっと何事かが浮かんで、「あ、これは三四郎で読んだ話だな」と思い出せるばあい、その何事かはわたしのものではなくて『三四郎』のものだという感じがする。ところが、そのように思い出すことができないとき、わたしはそれをどこかで見たり聞いたりしたことがらであることもすっかり忘れてわたしが最初から持っていたものであるような気になってしまう。 
もちろん、それはそれでいいのだ。だいいちわたしが知ってることのうちほとんどすべてのことは、どこで見たり聞いたりしたのか忘れてしまっているのだし。 
問題はときおりふとこれはどこで知ったんだろうと思い、運よく特定できたとき、ウィキペディアだということがよくあることだ。どうやらわたしは多くのことをウィキペディアで知ったらしい。わたしはそのことを恥ずかしいと思ってしまう。もしかしたら恥ずかしいことではないのかもしれないけれど、とにかく恥ずかしい。 

結局ウィキペディアで『三四郎』のページはみていない。『三四郎』は思ったより面白い。上京したてで目がくるくるとあっちこっちに行くような感じがあってかわいい。主人公である三四郎漫才コンビ三四郎」のツッコミ担当であるコミヤを思いうかべてしまうせいかもしれない。『三四郎』を読むのに三四郎のコミヤを思い浮かべてしまうのは、順番が逆だしおかしいかもしれないが理由がないわけでもない。わたしはちくま文庫版で『三四郎』を読んだのだけど、注釈で主人公の三四郎のモデルが小宮豊隆とされていたと書いてある。三四郎のコミヤと三四郎は小宮は似ている。いや、そうだとしても順番が逆であることにかわりはないか。と思って漫才コンビ三四郎ウィキペディアを観て見ると三四郎のコミヤと三四郎は小宮は似ているという話が出ていた。