悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

3/7

休みなのでなにかしたいけれどなにもすることが思いつかず、本など読んで過ごす。
一日まったく家から出ないのも不健康だと思うものの近所の図書館くらいしか行くところはなくそれでも家にいるよりかは良いだろうと思ったところで休館だということを思い出し、雨も降っているし、と結局一日家から出なかった。

ちかごろはだいぶ暖かくなったとはいえ、家にいると暖房をつけて過ごす。夕方ごろ郵便が届いたので、椅子を二つ並べて腰に悪そうな体勢で寝ていたところを起こされ外に出ると冷んやりした外気の感じがなんだか良かった。雨はやんでいた。とても静か。あたりの草木から落ちる水の音だけがしている。雨の残響をしばらく聴いていて、なんかこう、本当のぼんやりする時間、外界のものに目や耳を済ます時間を持ったほうが良いのではないかという気持ちになったけど、そういう時間を持とうと思って持つとそれはそれで嘘くさい気分になってしまうものだから、何事かに夢中になってふと気付いたときに訪れるのを待つしかないのだと思った。夢中になったり気を張ったりするのはもしかしたらそうした弛緩した時間を待つためにあるのかもしれない、などと思う。

 

カーヴァーの短編をいくつかパラパラみたり、笙野頼子『二百回忌』(新潮文庫)を読んだり居眠りしているうちにあっという間に一日は終わってしまった。

『二百回忌』はすごく良かった。
表題作の「二百回忌」は死んだ人も蘇る賑やかな法事をする独特な風習を描いたもので、死んだ人も生きた人も他の人の影響を受けてどこかおかしな感じになってしまい、語り手もまた話し方が変化したりして影響を受けたりすることがさらっと書かれていておもしろい。

「ふるえるふるさと」は実家に帰った主人公が振動をきっかけとして過去に戻ったりするこれもやっぱり不思議な話。地元の祭りへ行くのだけど〈祭りの音のする方に歩いている。その音につれて地面が、トランポリンのように振動している〉。そしてすぐあとの文章で過去に戻ってしまうのだけど、そこの書き方がいい。

そういえばきのうから帰省していたのだった。多分家を出て歩いてきたのだろう。が、気が付くと子供になっていて子供になってしまうと家に帰りたくなり、すると、いつのまにか、また元の家の中に私は座っていた。

子供になると家に帰りたくなってしまい家にいる、と原因と結果なのだけど、原因と結果がまったくつながらないのにそう書けば繋がってしまうのだから可笑しい。

そのあと揺れるたびに場面が切り替わって過去の様々な私に私は乗り替わっていく。しかし途中からはそのような明確な切り替え点のようなものはなくなり、最初は昔の記憶を追体験しているような感じだったのに次第に幻想的というかあきらかに嘘の体験もまじり不思議な感じがましていく。