悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記

3/8

アイロンの当て布が破れてしまったので仕事帰りに百均による。帰りにどこそこへ寄っていこうと仕事中によく思うもののいざ帰宅時間になると疲れてしまいどこかへ寄っていくなんてことは一ミリも考えられなくなってしまうのだけど、もうしばらく前から当て布は破れていて本日は断固とした決意を持ってなんとか百均に寄ることができた。前日に石川初『思考としてのランドスケープ』をちょろっと読んで、百均のことに触れられていたから寄る気になったのかもしれないなどと思う。

びっくりしたのは、いざ寄ると今度は店から出るのが面倒に思えてきたことで、メッシュ地で透けて見えるタイプの当て布がいったいどこにあるのか、店内は一応分類されていて棚から分類を示した札が飛び出ているのに見つけられず、かといって店員に聞いたりもせずぶらぶら歩いてるうちに探す気があるのかないのか早く帰りたいという気持ちもある一方で探すとう能動的な行為、さらにはレジに並んだりちょうどいい感じに小銭を出したりすることを考えだしたら異様に面倒に思えてしまい無駄な時間を過ごしてしまった。

緊張がなければ弛緩もないのか。ただだらだらと大事な時間は過ぎてしまう。
弛緩などとまたしても書いてしまったけどどういうつもりで書いているのかと思う。

弛緩のイメージは、北野武の映画で例えばソナチネみたいに緊張を強いられる状況のなかで生まれるたわみすぎて永遠のような時間のつもりなのだけど、最後にソナチネを観たのはずいぶん前でぜんぜん違う映画かもしれない。

ある作品について、こういう作品だったよな、というぼんやりした印象だけを覚えていて、久しぶりに読み返してみるとぜんぜん違う作品だったということはよくあることで、読み返してしまうと読み返す前の、「こういう作品だったよな」は薄れていってしまう。

この「こういう作品だったよな」といったときのその存在しない作品はなんなのか。
間違いといえば間違いなのだけど、曖昧な良い印象、さっきまで一緒にいた人の香水が自分の服に移っているといった感じの、実体のない作品にしても忘れるにはもったいないような気もする。

本日は松浦理英子『裏ヴァージョン』を少し読む。松浦理英子の本は読み始めるとどんどん読んでしまう。話がおもしろいからというのももちろんそうなのだけど、じっくり立ち止まってしまうと自分自身の嫌な面をほじくりかえしてしまいそうで、それは読者についてだったりするしほかのことだったりもしてなんなのかはっきりしないくらい立ち止まらずに読んでいるであって、いつかじっくり読むだろうかなどと思いつつもそのためにはまず良い体調を迎えなくてはならないし、だとすれば休息が必要だななどと考えてるうちにはて自分は疲れているのだろうかと思うとそれにしては別に激しく働いしてるわけではないのだし、いったいなにに疲れているのだろうかとぜんぜん違うことを考えはじめてしまいそうやっていつかそのうちなどと思っているうちは何もしないのだとあまりに退屈な格言めいたことばが浮かんでしまいそれに逆らってなにかものを考えようともせずにただただうんざりして寝る。