悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/17

3/17

昨夜は食事に出かける。
ひさびさの都内。渋谷のバスロータリーのところの歩道橋が部分的になくなっていて、すっきりとした見慣れない景色になっていた。
隣が近い居酒屋だと隣の話が気になって仕方がないのと、自分と同じようにこちらの話に聞き耳を立てているのではないかという気分になってうまく話せなくなる。
右隣の男女はその日が初対面のようで男の方が必死に口説いていた。

 

行き帰りの電車のなかではレイモンド・カーヴァーの『大聖堂』を読む。以前読んだときは他の作品集のほうが好きかもと思ったのに、今回は良い印象。ここのところ『頼むから静かにしてくれ』、『愛について語るときに我々の語ること』と立て続けに読んでいて、彼の作品のなかで電話は人と人とが関わるうえであまり良い道具として登場しないように思っていたのだけど、「ぼくが電話をかけている場所」という作品はアルコール依存の診療所での様子を描いたもので、最後に主人公が妻と恋人に電話をかけることを決意する場面で終わり、明るさがある。

「ささやかだけれど、役に立つこと」は子どもが交通事故にあって意識不明になってしまう夫婦の話。妻は事故の直前に子どもの誕生日ケーキをパン屋で予約するのだけど、事故が起こってそれどころじゃなくなってしまう。パン屋は誕生日ケーキをとりにこない夫婦にたいして執拗に電話をする。しかし妻はケーキのことはすっかり忘れていて、夫婦はそれがいたずら電話なのだと思う。

そういえばこの作品でも電話は嫌な存在として描かれている。突然かかってくるし、しかも登場人物にとっては誰だかわからないやつからなのだ。
カーヴァーの作品には家に突然人が訪れる物もあって、それらから可笑しくて不条理な感じをわたしが受けるのは、なんだかんだで家に入れてしまう箇所で、家を訪ねてきた人を招き入れるのは必ずしも当たり前とは言えない。断ることはしたっていい。けど、電話というのはかかってきたとき出るほうが普通なのだ。いまでこそ電話は誰からかかってきたのかわかるものだし、知らない人からかかってきた電話はでないということも常識になりつつあるのかもしれないけど、電話が誰からかかってきたのかわからない頃の電話というのは出ないという選択のほうが奇妙だろう。しかもそれは必ず突然かかってくる。つまり突然かかってきた電話に出るということはまったく不条理ではない。不条理ではないからおそろしい。

話は最終的に夫婦がパン屋へ行くことで大きく展開する。明るいとはとてもいえない展開なのだけど、暖かいものはあるような終わり方をする。「ぼくが電話をかけている場所」と比べたときに気になるのは、「ささやかだけど、役に立つこと」は実際に会いに行くところまで話が進んでいることで、前者は主人公が電話をかけることを決意するところで終わる。電話をかけてすらいないのにそれでも明るい感じがするのは、わたしがまったく人とうまく話せないし話したくもないからかもしれないし、カーヴァーの小説に出てくる少なくない登場人物たちが会話することを困難に感じているためかもしれない。とにかくまず話し合うために元気をだす。

いや、わたしが話し合うというとき、それは具体的な誰かをさしているわけではないです。ただ人と陽のあたるところで話しあったりすることを夢見ている。それが具体的にどういうものなのかは知らない。