悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/18

3/18

蚤は家を出て行く心の準備や身のまわりの整理をするようになった。“逃げられない”と思い始めた時にはむしろ家出の用意をしてみた。準備をすれば“逃げられる”と信じていいような雰囲気ができた。
大祭/笙野頼子

「大祭」の主人公は辛い家から逃げ出す希望を五十年に一度の祭りにたくすが、両親のせいで挫折をする。主人公は7歳なのだ。挫折したにしたって生きていくにはあまりに長い時間が残されている。

 

わたしは逃げ出すことを永遠に先送りし、逃亡前夜を繰り返すことで日々をやり過ごしていたのかもしれないと思う。

逃亡前夜にすることは多い。持っていくものと持っていかないものを決める必要がある。持っていくことができるものは限られている。服や必需品をひと通りリュックにつめてみるけど、こんなにはいらないとすぐに気がつく。必要なものはじっさいほとんどないのだ。

持っていかないものはただ置いていけばいいのかといえばそうともいえない。以後、人に見られたくないものはあるということに気づく。数冊のノートとパソコンは処分しなくてはならない。このことをわたしは躊躇する。戸惑うことは考えることを思いださせる。持っていく服を綺麗にたたみリュックにつめ、不要であること気づいたのちに取り出し引き出しに戻す。ついでに引き出しのなかに入っていた服もたたみ直す。このような単純な作業は考えることを必要とはしないが、戸惑ってしまえば次の行動をみつけるために考えなくてはならない。考えることは疲れるのだ。疲れを感じれば準備は中止となる。

昔の日記を読み返すと、ああ、あのとき自分はこんなことを思っていたのだなどと思うのだけど、それではまるでそこに書かれたわたしがわたしと同じ人のようだ。
今日わたしは思ってもいないことを書いてそのことを自覚しているけれど、しばらくすればそんなことは忘れてしまいただ日記として書かれたということのためだけに本当のことだと思っているようですらある。書いてしまった以上、本当のことだったということは可能かもしれない。可能かもしれない、というかそれしか残っていないのだから、他のことは言えないということか。