悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/20

3/20

平日の午後、2時とかそれくらいの時間、車に乗り駅前の交差点で信号を待っているとき、外を見ていると家族連れがファミレスから出てきたりする。
若い夫婦と小学生になったかならないかくらいの子供、ベビーカーに乗った赤ちゃん。

男はキャップを被っている。七分たけくらいのシャツにジーンズ。手にはダウンのベストを持っている。女は丈の長いスウェット地のスカートで男と色違いのダウンのベストを、こちらは着ている。

小さい男の子はファミレスの入り口から勢いよく飛び出してきたかと思ったら、転んで、けれどすぐに立ち上がり駈け出そうとすると女が慌てた様子で後ろから、やはり男の子も着ていたダウンのベストの襟首をつかんだ。男の子の着ていたベストは転んだり母親の足に体をぶつけたりするたびに色が変わっていた。色が変化するところは見ておらず、思い浮かべるたびに色が異なっていて陽の当たり方などで違って見えたのかもしれないし、実は双子だったり三つ子だったりしたのかもしれない。

ありふれた家族の彼らにとっては休日なのであろう午後のひとときを、平日の午後にみかけるととても美しいものをみたような気になる。
ファミレスから出てきた彼らは特別おいしものを食べて満足したような顔をするわけでもなく、陽の光に目を細めたりしていた。

わたしは平日の午後にファミレスから出てたとき、見ず知らずのだれかが自分のことを羨んでるだなんて想像をするだろうか。
平日の午後は時間がゆっくりと進むのは人通りの量や歩いている人の感じが平日の午後の空気をつくっているんじゃないだろうかと思っていたのだけど、単純にわたしが一向に時間が進まない午後にただ退屈しているだけなのかもしれないとも思う。

信号が青になると直進で進み、駅前のロータリーのすみに車を止めた。タクシープールではドライバーの人たちがちらほら腕まくりをしてタバコを吸っていた。
タバコがおいしいなんて感じることはまったくないのに、他人の吸うそれはどうしておいしそうにみえるのだろう。

留置所には運動と呼ばれる時間があって、一日に一度だけ屋外に出ることができる。屋外といっても狭くて塀に囲まれた場所で実際に走ったりするわけではなくてもっぱら一服の時間なのだとか。
ところが最近は公舎はどこも禁煙で留置人もとうぜんのごとく吸えないらしい。
という話をタクシープールのドライバーたちが大声でしていた。

最近読んだ西村賢太の「春は青いバスに乗って」という短編小説のなかで、主人公が留置所でたばこを吸うシーンがあって印象に残っていたのでドライバーたちの会話を興味深く思う。

ちかごろはチェーホフのことを考えている。考えているだけでいっこうに読んだりしないのっだけど、チェーホフの作品内における対象との距離とでもいえばいいのか、語りと視点人物との距離感が好きだなと思う。読んだらぜんぜん見当違いだと思うかもしれない。
カーヴァーを読んでいて、そもそもチェーホフを思い出したのは書店でカーヴァーの本をぱらぱらみていたらチェーホフのことが書いてあったからなのだけど、カーヴァーとチェーホフとではこの距離感がぜんぜん違うように思う。
違うというか、わたしがいま漠然と抱いているチェーホフへのイメージでは、カーヴァーにおける動作の描写のぼんやりとしてただ見てしまっている感じの良さは言えないなといえばいいのか。