悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/21

3/21

チェーホフの距離」という文章のなかで山田稔チェーホフの実生活における他人との距離のとりかたに触れる。

青春を犠牲にして手に入れた貴重な自由を、チェーホフは相手が社会であれ、個人であれ、頑なに守り通そうとした。自由を束縛するおそれのある一切のもの、名声にたいしてさえ慎重で、小心なほど警戒心がつよかった。そこからチェーホフ独特の距離のとり方が生じてくる。

その距離ゆえに、政治的立場がはっきりしない、主義主張に欠ける、無関心だとの批判をしばしばうけた。それにたいし、つぎのように言う。ーー無関心な人間だけが事物をはっきりと眺め、公平であることができる。ただしこれは、エゴイストや空虚な連中の無関心とは別のものだ。

恋愛においても、チェーホフは独特の距離をとったことが書かれている。短い文章だけど、オリガ・クニッペルとの恋愛の顛末などもおもしろく読む。

ついでに「かき」(神西清訳)も読む。チェホンテ時代の作品。こんな文章だったっけっと驚く。辛い空腹状態にある男の子の一人称で、読点が多いよう。たいがいは松下裕訳で読んでいるはずなので違う感じを受けるのだろうかと思って本棚を探したけれど松下裕訳のかきなど持っていなかった。かわりに沼野充義訳をみつける。こちらは「牡蠣」。思った以上に違うので驚く。まず一人称が「ぼく」と「おれ」で違う。空腹のとき牡蠣を食べる話なのだけど、回想形式で一人称の比重が神西訳に比べて沼野訳は回想している時点に傾いているよう。神西訳の方がひらがなに開かれている量が多いようでそのあたりも八歳児の視点に近寄っていると感じる理由かもしれない。

本日はせっかくの休みだったのにあまり本を読めなかった。笙野頼子「レストレス・ドリーム」と千田有紀『ヒューマニティーズ 女性学/男性学』をちょろちょろ読んだりする。
風邪をひいたと思う。おとといの朝から喉に異変があり、昨日の午後くらいから鼻水がとまらなくなる。今朝、鼻水の薬を飲んだら効いたようで、せっかくの暖かい日を楽しもうと外に椅子を持ち出して本を読んでいたら寝てしまい、目が覚めると風が吹いていてとても寒い、きっとこれがよくなかったのだ、薬のせいなのか眠くてたまらずソファでまた寝て起きると鼻水はすっかりおさまり喉の嫌な感じもなくなったのだけど、今度は頭が痛い。熱がありそうだった。計って実際に熱があると気が沈んでしまうなと思って熱は計らず寝たり起きたりしていた。

夜になるとなんとなく多少気分が良くなった。
以前、テレビで、たしかローリー寺西がインフルエンザで高熱があるときにピンク・フロイドの『狂気』を聞いたらとてもよく「わかった」と言っていて、このエピソードは好きで、真似しようと思いヘッドホンをつけたまま寝たりした。でも結局『狂気』ではなくなんでか、ゆるふわギャングを聞いた。カッコいい。

両手にバニラシェイクとポテト
この二つは最高のポルノ
この二つがあれば落ち着くの
君達には分からないでしょ

「Dippin’ Shake」