悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記3/27

3/27

一週間くらい前に調子を崩してから生活のテンポもおかしくなってしまったよう。
レイモンド・カーヴァーの「書くことについて」というエッセイのなか、〈アイザック・ディネーセンはこう言った。私は、希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます、と。〉という一文があり良いと思う。
生活をしていくためには毎日なにかをちょっとずつするのが大事なんじゃないかしら。あまり気負ったりせずに。

カーヴァーは良いと思った言葉について〈いつか私はその言葉を小さなカードに書いて、机の横の壁に貼っておこうと思う。〉と書く。
このエッセイでは他にもいくつか壁に貼っておくべき言葉が紹介される。

カーヴァーといえば村上春樹で、このエッセイも訳している。わたしはあまり村上春樹の良い読者ではないのだけど、〈スタイルという言葉が、私の言っていることに近いかもしれない。でもただスタイルという一言で括ってしまえるものではない。それはその作家自身の手による、紛れもない署名なのだ。その署名は彼の書くすべての文章に含まれている。そこは彼の世界であり、他の誰の世界でもない。それは、一人の作家を他の作家から区別する物事のひとつである。〉とかはまるで村上春樹自身の文章みたいと思う。

どちらかといえば引き出しの中に閉まっておきたいような文章のほうが惹かれるかもしれない。
思いつくものはないのだけどブログへの引用もそういうものばかりにしようか。ここは引き出しではないはずなのに、実はのび太の部屋の引き出し的な、隠したつもりが実は繋がっているというふうな、そういう素ぶり。


ちかごろぽろぽろ読んでいた松浦理英子『優しい去勢のために』を読み終える。
〈今となってはわれわれは欲望の生成に関して言を弄することができる。〈個〉というかたちで在らしめられていることへの異議申し立てとして〈欲望〉が発生する。そのようにして発生した〈欲望〉は〈個〉から〈全〉に向かう架空の道を切り拓く役割を負わされている。したがって〈欲望〉は〈個〉において生じた途端に〈個〉のスケールを遥かに越えて拡がり出て行く。そうしたものである〈欲望〉を完全に引き受ける〈個〉が存在する道理はない。〉
欲望の処方箋/松浦理英子


本日は、仕事終わりに図書館へ寄り読まない本を何冊か借りる。
ミステリーが読みたい気分で、陳浩基『13・67』(天野健太郎訳)を借りる。読み始めたら面白そうなので良かった。
とはいえ、やっぱりあまり体調がよくないせいなのか、ここ何日か朝起きるたびに一体何曜日なのかわからなくて軽くパニックな感じになるので、ちょこっと日記を書いて早く寝ること。