悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記4/7

4/7

休み。
先の予定のことを考えて憂鬱な気分になる。
ここ数日、気が好転しないので気分をかえるために天沢退二郎『オレンジ党と黒い釜』を読む。明るい話ではないけど、とても好き。この小説のジュブナイル的な良さは、主人公のルミ子が転校してきたそのときから仲間たちを予感していて、運命づけられているようなところだと思う。ルミ子が彼らと仲間になることに理由はあるのだけど、それは必ずしもルミ子と彼らの気が合うことを根拠づけはしないのに、彼らはすでに仲間なのだ。

仲間は良い。仲間ということばで思い出すのは漫画『プラネテス』の4巻で作者がカバーの見返しに書いている短い文章。

死ぬとか、生きるとか、それらの意味とか、宇宙のこととか、戦争とか、平和とか、かわいいあの子のこととか、ケンカ別れしたままの友達のこととか、昔やらかした大失敗を後悔したりとか、僕の脳ミソはだいたいその手の「考えたってしょーがないだろ」系の問題でいっぱいです。答えのないことをダラダラ考えて時間をムダにして、時間のムダだからとりあえず現時点での結論をヒネリ出そうとして、やっぱり出なくて、そんなことをしている間は他のことがウワの空になってて、コーヒーカップをひっくり返たりしちゃったりして、ああもう困ったもんだ。そんな僕につける薬はあるんでしょうか? あるんでしょうかってば。ないならせめて仲間が欲しいです。

プラネテスの4巻は最終巻で、ストーリーにはいちおう結論のようなものがあり、それなりに明るいものなのに、どうしてこのようなやりきれない文章が一番最後に載っているのだろう。理由はわからないけど、ときどき思い出す。

いなくなってしまったり、もう会えなくなってしまった人のことをよく考える。知り合いというか蜜に関わった人がたぶん少ないのでみんなよくおぼえてる。元気でやってそうな人ならいいけど、そうじゃない、問題の多そうな人は、心配だけ残してどこかへ行ってしまうなんてひどいと思う。まあ半分、冗談。なんというか、こういう絶対に相手には届きっこない感情というのは宙に浮いているものなのだろうか。行き場のない、かなしいものなのだろうか。そうではないといいけど。でも、そういった感情というのはいまこの瞬間にもあらゆる所で溢れかえっているに違いない。

石原千秋の『漱石と三人の読者』という本を最近読んだ。漱石がいかに読み手というものを意識していたかということが書かれている。そのなかで漱石が存在を意識していなかった読者の存在というのが出てくる。
届かないと思われた感情のようなものも、まったく見ず知らずの人に届くということもあるのだろうか。もちろんなんらかの形にしなければ、誰にも届きはしないのだけど。