悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

日記4/17~19

4/17

思い出になりそうだなと思う瞬間がある。
いつか未来で思い浮かべる時の感触を先取りする。

街が一瞬、映画のワンシーンのようにみえる。
このことは街が映画に含まれているのか、あるいは映画が街に含まれているか。そのどちらでもなくわたしがなにかを見るということは、そもそもそのように記憶を折り重ねて透かすことなのか。

昨日、飛んでいる飛行機を見たことを書いた。
実は飛行機を見るまえからすでにわたしはぼんやりと空を眺めたりしたいと思っていた。その思いが飛行機を見させたのかもしれないし、昨日の日記を書いたときに思い浮かべたのは飛行機を見る前の、こういう風に飛行機を見たいという感触だった。


4/18

悪名高き(?)小宮豊隆著『夏目漱石』を少し読む。意外とおもしろい。
「変物」と題された章。漱石が変物を自認していたことを述べ、変物とは自分で自分のことを言うときに使う言葉ではなく、他人からそう言われる言葉なのになぜ漱石は自分自身で変物なのだなどと言ったのか、とそんなことをあれやこれや考察するところなど、おかしい。

本日は、休みだったけど仕事になる。
眠たいし、なにもやる気がでない。それでも帰ってきてから泉鏡花高野聖』などたを読んだりする。

日記、というかブログのこと。彼、あるいは彼女と、書くように私と書きたいような気もする。いっぽうで、そもそも書くということは私から遠く距離をたもつことなのかもしれずだとすればわたしは正しく私と肌をふれあいたいような気もする。

4/19

仕事。
眠たくて眠たくてしかたがない。
驚くほどさぼり、たらふく飯を食う。というのはどうだろうか、と昼食を半分くらい残し、近くのコンビニの喫煙所で考える。

寝不足だと世界が薄くなる。光を強く感じるといえばいいか。くっきりと色彩をとらえることができない。光に圧迫され、やがて眠ってしまうよう。気持ちのいい風が吹いたりすると、目が覚める、しゃんとする。
カメラ越しに、何かをのぞいているとき、カメラ越しだということをすっかり忘れ、夢中になって覗き込んでいるうちにふと、カメラ越しだったのだと気づくような、と言えばいいか、道路を行き交う車やすっかり緑色になったコブシの木を「見ている」ということをすっかり忘れていたことを思い出す瞬間、ああそういえばわたしは生きていたんだと、認識の認識みたいなものがおとずれる瞬間、という感覚がかつてあった。そういう感覚を今日感じたわけではなくて、そんな感覚があったな、とぼんやりした頭でふと思い出す。

帰宅後、チェーホフの手紙と笙野頼子『居場所もなかった』を少し読む。どちらも良い。『居場所もなかった』はすごく良い。