悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

川原で映画を観るのはどう?

大学を卒業してアパートに引っ越したら壁が良い感じに白かったので、ボーナスが出るとプロジェクターを買った。
いざ買ってみるとスクリーンも欲しくなったが、探し出すと面倒に思えてきて寝る前は白い壁に映して映画をみた。
実際には映画をみたというかただ映していただけで、なんというか、さっそうと映し出されたバスター・キートンが画面のなかのスクリーンに入り込んでいくよりも先に私のほうが夢のなかへ行ってしまっていたし、スカイクロラというアニメの映画を観ようとして映したときは一週間毎日見終わるまえに寝てしまい、なるほどキルドレの生とはこういうものかと思ったりなどした。
それでも良い買い物をしたと思った。

ほどなくして仕事をやめ実家にもどった。
実家に戻ってしばらくは厭世的な気分にさいなまれぼけっとしていたが、生存の危機を感じしゃきっとしてきたころ、プロジェクターの存在を思い出した。しかし実家の壁は不運なことにいつの間にか両親がせっせと珪藻土を塗っておしゃれ感じにしてしまっていたので、でこぼこしておりとてもじゃないが映画を観る気になる壁ではなかった。

「だから良かったらもらってほしんだけど」とFに電話した。
Fは映画が好きだった。どうせ使わないなら良い感じに使ってくれそうな人にあげるのが良いのではないかと思ったのだ。
「いらないかな」とFはいった。
「でも」とF。
「川原にプロジェクターを持っていって映画を観るっていうのはどう?」
提案を断られ、落ち込みかけたが、なるほどそれは良いアイデアだと思った。
森のなかで映画を観たりするイベントをまえに雑誌でみたことがあった。
似たようなものだろう。
ぜひそれをしたいと思った。
「スクリーンが必要だね。スクリーンを持っていないから」
「白いシーツで良いんじゃないかな。それならうちにあるかもしれない」
「二人でみる?」
「多いほうが楽しそうだけど」
残念ながら私たちには他に誘えそうな友人はいなかった。
「でもほら、川原で映画を観ていたら、歩いている人が気がついて近寄ってくるかも」とF。
「それは面白そう」
私が仮に歩いている人だったら、すごくラッキーな場面に出会したと思うじゃないだろうか。
外でプロジェクターを観るなら、夜でなくてはならない。夜の川原を歩いている人なんてきっとすごく悲しい人に違いない。
悲しい人なら大歓迎。だって私もすごく悲しい気分なのだ。新卒ではいった会社をやめて、素敵な白い壁も失ってしまったんだから。
多摩川が良いかな」
「秋川でもいいよ」
「秋川と多摩川って同じ?」
「どうだろう」
多摩川が良いよ。多摩っていうのは魂のことで、ほら、詩人の魂は多摩川へむくんだよ」
「多摩市?」
「うん」
Fは「うん」とよくいう。ここでおしまい、次へ行きますの「うん」。
句読点みたいな「うん」。
「、」なら一呼吸置きましょう。「。」なら二呼吸。
でもFは句点は「うん」。読点はない。

私の父や母は車に乗って、大きい駐車場で映画を観たらしいけど、私がそのことをイメージとして思い浮かべることができるのは唯一『平成たぬき合戦ぽんぽこ』のワンシーンとしてだけだ。

「じゃあ、近いうちに」

「そうだね。もう少し暖かくなったら」
「じゃあ、また」
「じゃあ、また」
私は電話を切って、布団にもぐる。
そういえば、世の中には権利とかそういったものがあるから、川原で映画を見ていたら、逮捕されちゃうんじゃないだろうかなどと思ったけど、それなら自分で撮ってちゃえば良いんじゃない、と思えるくらい前向きでのんきな気分のまま眠った。
夜の川原を歩く魂が吸い寄せられる誘蛾灯みたいに優しい映画。

ところで、そんな素敵な計画はいまどこにいってしまったんだろうか。頓挫してしまった数々の素敵な計画の一つとして、永遠の川原に似たどこかに積み上げられてしまったことは間違いないのだとして。