悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2019/12/10

健やかに一日を過ごす。
その日の天気を記す。天気予報で見たものではない。
曇りなのか晴れなのか曖昧な一日もある。数年後に見返したとき、晴れと書いてしまえば、その一日は晴れだったことになっている。でも読み返すことは決してないので、あまり悩む必要はない。
朝食と昼食と夕食を記す。外で食べた昼食は大きいお皿の上にいくつもおかずが乗っていて、このお皿を代表するおかずは何なのか、それともこのバランスでこれらのものが大きなお皿に乗っていることを総称して名前がついているのか、もはやわからなくても、外食とだけ書いておけばいい。
健やかな日々に演じるわたしは不必要なので、レシートを参考にした文章を書けばいい。

日記が正確ではないことが、かつてわたしが書いたという証左なのかもしれない。ライフログとの差は「まあ、たぶん晴れてたっしょ。晴れ。」と記すことにある。

日記を読み返すとき、どのわたしもわたしだと思っているかぎり、わたしはかつてのわたしの一人称をわたしのそれと混同してしまう。つまりわたしは日記を読み間違える。
しかし、この問題は問題ではない。やはりそのほとんどは読み返すことが決してないのだから。いや、読み返すかもしれない。でもいまは読み返さないような気がしている。読み返したとしても読み返さない。

 

 

昨日読んでいた後藤明生の『S温泉からの報告書』は最後の方で、種明かしのようなものが行われる。種明かしと言ってみると口に馴染む感じがするのだけど種明かしではない。友人の口を借りて語り手が、それまで書かれたものを分析する。『挟み撃ち』にも似たような先回りする自己言及があったように記憶している。基本的に小説のそれ自身に対する自己言及はほとんどの場合無邪気な意図とは反対に作り物であることの輪郭をはっきりとさせることにしかならない気がして好きではないのだけど、後藤明生のこうした書き方はけっこう好きだと思う。