悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2019/12/13

仕事へ行く。

忙しくなっている。

会社の近くの街路樹の銀杏は例年葉が黄色くなるより前に剪定されてしまい、これじゃ銀杏である意味があるのだろうかと思っていたのだけど、今年は道路に黄色い落ち葉の山が出来ているのにまだ丸坊主になっていない。もしかしたら毎年黄色くなってから剪定されている街路樹もあったのかもしれない。でも昨年まで意識したことはなく早く切り過ぎていることにだけ気づいていた。

今週はずっと眠く、気分もよくない。冷たい空気が内側にたくさん溜まっていく感じがする。

 

昨晩、諏訪哲史の『アサッテの人』を読んだ。

僕は驚いた拍子に、立て続けに数回ひどいくしゃみをした。路上で狙撃されるテロリストのように、僕の体は痙攣し前後にくねった。 

とある。
〈路上で狙撃されるテロリスト〉というのは逆ではないかと思った。テロリストは狙撃されるより狙撃する方が似合っているように思える。はたしてテロリストは狙撃されるのだろうか。テロリストの末路をわたしは知らないのでなんとも言えないとはいえ、ビルの屋上からターゲットを狙撃したテロリストが逃走のため路上に跳び出したところで警察官に狙撃されるということはあるかもしれない。

この文章は作中人物の日記の中の文章として小説中に現れる。それまで吃音に悩まされていたその人物は引用した出来事の後、吃音がなくなってしまう。くしゃみをしたり体が痙攣したりすることよりも、転倒したテロリストこそがきっかけなのだと言えたりするかもしれない。そう思うと納得したりもするのだけど、あるいはテロリストは狙撃されるものなのかもしれない。

〈かもしれない〉とばかり書いていることは前々から気になっていたけど、今日もかもしれないとばかり書いているかもしれない。
かもしれないには「ちょっと思っただけですが」というような言い訳めいたところがある、などと誰かに指摘されて恥ずかしい思いをしたい。そうしたらかもしれないなどと書くことはなくなるかもしれない。

 

日記は書き手とそこに書かれる私の距離がもっとも近い文章だといえる。しかしそれは日記が私以外の誰にも読まれないことを前提とした上でのことだ。逆に公開を前提とした日記は、そうではない日記以上に日記という形式を意識したものになる。だからそのような日記において、なにか書き手が恥ずかしくなってしまうような指摘があるとすれば、書かれていることの奥深くにあるものを暴こうとするよりも、そのように書いている振る舞いそのものについて触れられることかもしれない。

 

わたしは毎日はずかしい。その日一日の振る舞いも恥ずかしいし、ふいに思い出す過去の振る舞いも恥ずかしい。

自分がまったく恥ずかしいと思っていなかったことを恥ずかしいこととして指摘されることも恥ずかしい。これは特に恥ずかしい。例えば知らず知らず緊張すると掌底の部分で耳の裏を犬みたいに擦っているとか。