悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

2020/03/26

寒さも遠ざかりつつある。
冬の冷たい風は、胸郭を開かせる。背中とお腹のあいだに空白を感じる。
湿った風は体にぶつかる、と春の印象をさきどる。
日々はいらいらすることが多い。天気の話は、それらから遠ざかりたいという身振りでもあるけれど、天気の話をすることじたい、いらいらして面倒な場面が多い。

とうとう/いまさらゲーム・オブ・スローンズをみはじめてしまった。
ドラマやアニメは観始めるとずっと観てしまい、生活のリズムが崩れてしまうのが嫌なのだけど、つい。
気が小さいせいで出かけるのも躊躇してしまうといえばそうだし、あるいは小さいころから冒険も旅もなによりもまず物語にあったこともたしか。

映画「ドラえもん のび太の大魔鏡」で、ジャングルへ冒険に出かけたのび太一行は、なにか用事が出来たりするとどこでもドアでちょこちょこっと町へ戻る。
それが気に入らないジャイアンがそんなの冒険じゃない、とドラえもんの秘密道具を禁止にしてしまう。
映画のジャイアンは良いやつだと通説があるけれど、良いやつというか、大魔鏡のジャイアンは特にすごい。ずっと不機嫌で、一番存在感がある。
物語の終盤、ジャイアンは言葉少なく決意ある行動に出る。
その姿をみて、しずかちゃんが「たけしさんはずっとひとりで責任を感じていたのよ」と語る場面がある。大魔境はここでのしずかちゃんへのクローズアップが良い。
アニメでのクローズアップはベイマックスとこれがとても好き。
ところがリメイクされた「のび太の大魔鏡」ではこの場面が微妙になっていた。最近のドラえもん映画もアニメーションが楽しげで好きだとはいえ。
なんて話を、先日うっかり従兄弟の子どもにしそうになった。すごく危ない。
年を取ると顔の筋肉が垂るんでくるというから、よほど気をつけなければうっかり口からよけいな言葉が漏れ出てしまうかもしれない。この歳でこんなうっかりをしかけていては、早晩うざい年長者になってしまいそうで、おそろしい。

こうでなくてはならないと考える気持ちに流されるとき「わたし」はかたいものになっていく。
ぎすぎすしないで、ゆったりとした心持ちでいたい。
やわらかい、ということばにポジティブなイメージがある。ぎすぎすしないで、ゆったりした心持ちはきっとやわらかい。暖かい日差しで、かたまった骨や筋肉が溶け穏やかな呼吸となるイメージを浮かべる。

俳優の山崎努の著書に『柔らかな犀の角』という本がある。読んだことはない。
原典のある言葉なのだろうか。知らない。
犀の角はやわらかいのかもしれないと想像してみる。ただひとり歩くとき、何周か遅れた先頭で、やわらかい身を晒していては耐えられない、というのは、かたいものは良いものであるという偏見で、跳ね返すためではなく受けとめるために歩いているのなら、やわらかい方が良いという意見もある。

年々ものの考え方はかたくなっていくだろう。
わたしには身を翻すことが困難な偏見がすでに数多くあると感じる。
親も、ちかごろ一見角がとれたようにも見えるものの、これまでちらっと見せていた偏屈な部分がより凝固し、とれた角の跡から姿を見せると、それはすでに形を変えることが出来ないものとしてあるようだ。
気分の良い陽気のなか、やわらかさについてうさんくさいイメージに浸っても、それはやわらかさとは無縁であることがとても辛い。