悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

期待と退屈

曇りだったり雨が降っていたりするとあまり考えないけど、夏は近づいている。もうほとんど来ているかもしれない。季節は反復横跳びのように訪れる。
「やあ」と引き戸をガラガラっと開けて夏が訪れる。ひさしぶりっとわたしが言葉を出す前に、キュルキュルっとテープは巻き戻り、もう一度「やあ」と引き戸をガラガラっと開けて夏が訪れる。今度こそと向かい入れる準備が整っているわたしをしり目に、もう何度か巻き戻り繰り返す。「やあ」ガラガラ「やあ」ガラガラ。そしていつの間にか、すっかり夏は上がりこんでいて、そのことをわたしは失念する。

夏は期待と退屈の季節だ。
あるいは夏休みはそのように定義される。
それは夏休みの思想だと賢人の教えをさずかる。
退屈だから期待するのか、あるいはその逆なのか、真実はいまだ解明されていないとはいえ。

小学生のころ、一人で過ごすには広すぎる夏休みのリビングに日は差さず、思いのほかひんやりとしていた。
外に出ればきっと溶けてしまうのに、とても良い天気でくっきりとした色合いの屋外を見ると、何かを探しに行かなくてはならない気持ちになる。その誘いを待っていた。
通りでは、薄いTシャツを着た子どもたちが微かに疲労の色を浮かべ、細い木の枝など持ち野良猫を追いかけていた。
誰かの家で集まって、五つ子ちゃんを見てからゲームをする。
うっすらと頭が痛いような気がする。友達の家の麦茶は味が違う。みんなで集まっているのに、まだ誰にも誘いは来ていない。

いまや夏休みはほとんどない。今年の夏休みは三日だ。去年は四日。来年も三日。三日間を私は退屈せずに過ごすだろう、やりたいこともしたいことも多すぎる。期待もしないだろう。うっかり寝過ごすことも含めてスケジュールはいっぱいなのだ。それにもかかわらず、期待しているし、わたしはずっと退屈している。
待つことに甘んじない勇敢な人たちが、もっと素晴らしい夏を過ごすころ、待つことしか知らないわたしは、怠惰を暑さのせいにするのだ。そんな夏を何度も過ごして来た。期待と退屈の季節を過ごすすべての人にピース。