悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

卓球台のある生活

ちょこっと体を動かしたい。
高校生のころはバドミントン部だったし、ひさしぶりにバドミントンをやるのも良いなと思うものの、わざわざ体育館を借りたり人を誘ったりいろいろ考えたり調べたりしなくてはいけない事がたくさんありそうな気がして、おっくう。
だったら、もうちょっと、こじんまりとした印象の卓球はどうだろうかと考える。
出かけたりせず、家のなかでちょこっと体を動かしたいのだ。
卓球なら台を買ってしまえば家の中でも楽しめるのではないだろうか。
もちろん、バドミントンをやっていた人がバドミントンときいて、日曜日の公園でキャッキャッとやるようなものを想像しないのと同じように、卓球だってきっとすごくハードなスポーツであることは明らかだとはいえ、少なくともバドミントンを家の中でやる困難より、卓球のそれが小さい可能性は大きい。

そもそも部屋に卓球台があるなんて、相当イケてるんじゃないだろうか。
緑色で真ん中から山折りになる卓球台。
緑色は目に良いのだし、たぶんテーブルとしても使える。
部屋に緑を増やしたい? それなら植物をかざるよりも、よっぽど良い。優しさがある。枯らしたりしない。
邪魔ならば山折りにして隅に置いとけばいいし、なんならテーブルとして使えばいい。
ただ、あえて卓球台をテーブルとして使っています、という感じはかっこ悪い。
卓球を楽しんでいる生活があり、毎回片付けるのが面倒なので最近はいっその事テーブルとして使っちゃおうかなって感じなんですよ、という方が良い。テーブルクロスなど、間違っても敷いてはいけない。

仮にわたしが恋人や友人、兄弟と暮らしていたとして、ときとぎ向かい合い、ピンポンする。
卓球台を囲んでする食事がたとえ無言だったとしても、食後の運動として、ピンポンする。
道を極めつつある人たちの魂の対話などではなく、あいさつのようなピンポン。言葉のキャッチボール、ではなくピンポン。テンポよく。「やあ」と手をあげるかわりに。ラケットを握り、慈しみのラリーをする。
ただ、交わすことに意味のある言葉があり、わたしたちの生活のほとんどはそれで、言葉は言葉そのものの意味よりも、軽くあげる手のひらに似ている。
だからそのとき、わたしたちは穏やかな沈黙のなかでラリーを続けることだろう。