柴田元幸訳の『ナインストーリーズ』が読みたくなったので、本屋へ出かけたがなかった。
部屋を探したら野崎訳が見つかった。
新潮文庫版の『ナインストーリーズ』はいかにも文庫本という感じで好きだ。
私は文庫本が好きだ。大きな本より比較的やすいし、なによりかさばらない。電車の中でも勇猛果敢に分厚くて大きな本を読んでいる人もいるけれど、私にはできない。単行本をずっと持っていることができない。
私の文庫本の好きさはその身軽さだから、分厚い文庫本はどこか矛盾した存在に感じる。京極堂シリーズは分冊版で買っていた。虚無への供物も分冊版で買った。
長編小説も私にとっては文庫本との相性かあまりよくない。光文社版のドストエフスキーなんて文庫で何冊もありぎょっとする。
家で椅子に座って読むなら、ハードカバーの本の方がいい。横にノートを広げながら読んだりメモを書き込んだりするなら、文庫本はちょっと扱いにくい。家の外で、喫茶店で、電車の中で、公園で、読むなら文庫本がいい。改札の前で待っているときも、欄干の上を曲芸師みたいに歩くときも、宇宙の果てですでに遠く見えなくなった地球との別れを惜しむときも、気軽に読める。
三島由紀夫が戦地へ方丈記だけを持っていったというエピソードを聞いたことがある。どこでだれから聞いたのか、本当のことなのか知らないけれど、文庫本とはそういうふうに付き合いたいという憧れをいだいた。
一時期、短篇小説が好きだという人に共感を覚えていたけど、どちらかといえば短篇小説より文庫本が好きなのだ。とはいえ、長編小説に比べればたしかに短篇小説は文庫本と相性がいいだろう。
詩歌が私にとって身近に感じられないのも、多くの詩集や歌集がいぜん物としての主張が大きく感じられるからだと思う。
軽やかさは、軽んじられてるということでもあるはすだ。文庫本は軽んじられてる。
ボールペンでいえばジェットストリームだ。
「普段使い」という俗悪な言葉を受け入れるなら、文庫本は普段使いの本とも言えるだろう。
だから『ナインストーリーズ』なのだ。
厚さもちょうどいい。ポッケに入ってほしいし、サコッシュにも入ってほしい。
中公文庫のカーヴァーの作品集も良い。
カーヴァーといえば、村上春樹翻訳ライブラリーの青のイメージの装丁やThe complete works of Raymond Carver のカラフルなイメージだけど、Carver's dozenのあの腕組みしたカーヴァーがじっとこちらを向いてるちょっといけてない表紙が逆に親しみを感じさせる。つまり、ジェットストリーム的であるということだ。
それがベストセレクションだというのも良い。
スピッツもビートルズも私はベスト盤から入ったし、ベスト盤も好きだ。
ベスト盤の役割が入口であるばかりとは限らない。
没頭するのではない親しみがベスト盤にはある。
そしてそれは文庫本にもある。
驚くべきことに、気軽さと親しみは深い愛となんの矛盾もしないのだ。
とはいえ、このごろではコンビニのビニール傘の値段にぎょっとするように、文庫本もまたうっかりどこかに置き忘れることに耐えられないほど、金額という重みが、サコッシュの肩紐にのしかかっているのだけれど。