悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

12月までは暖房を使わないぞ日記

11月8日

昨年の夏は、冷房を我慢したせいで、とんでもなくしんどい思いをした。
今年は気軽に冷房を使うことにした。おかげで昨年に比べると夏の辛さもいくらか軽減したのだけど、夏の電気代が請求されてみると、なるほど、ぎょっとしてしまう。
できれば12月までは暖房を使わずに過ごすことしたい。

11月9日

昨日暖房を使うことを我慢しようと思ったのは、夜が寒く、暖房を入れたくなったからだ。
なに、まだ11月も上旬じゃないか! いまから寒がっていたのでは、2月には死んでしまうぞ、と喝を入れて、そのことを書くことにした。これは励ましであり怒りである。

11月10日

計画的に少しずつ、暖かくすることにした。
掛け布団と毛布は、もうしばらく前に出している。シーツはまだ夏用のままだ。冬用のシーツにするともう少し暖かくなる。これはまだまだ先延ばしにできそうである。
昨日から、タイツを履くことにした。タイツを履くとだいぶ寒さがやわらぐ。

11月11日

今日からヒートテックをより暖かい種類のものにした。
しかし今日はそれほど寒さを感じなかった。
仕事の帰りに上着を忘れそうになる。

11月12日

朝は寒い。昼間はそうでもない。
朝がいちばん暖房をつけたくなる。少し前に、この季節が好きだ、なんてブログに書いていたことがバカらしい。私は嘘つきじゃなくてバカだ。バカだから言っていることがころころ変わるのだ。
布団から出るのが億劫だ。着替えるのも面倒。寒くて着替えたくないというより、着ている量が増えてきたので、それらを脱ぎまた別のものを次々身につけていくのが面倒だと感じる。

11月18日

しばらく暖かかった。めんどうだったのかもしれない。書くことを忘れていた。忘れていたということは寒くなかったのだと思う。
5時半に起きると暗い。
風が吹いていた。揺れている草木が目立つ。北風の乱暴さはまださほどなく、葉の一枚いちまいが揺れているよう。それでも冬をかんじる。
曇空のした畑道を車で走っていると、東の山の向こうだけ晴れていた。
まだ寒くない、と車の中で思った。このぶんでは暖房などつけないまま冬を越せるのではないかと大それた気持ちになるが、夜になるととたんに寒い。

11月19日

休みだった。
外をながめていると、なんだか寒そうである。
ベッドのシーツや、室内の敷物を冬用のものに変えた。
ついでに、夏頃に買ったテロテロした素材の断熱カーテンをとりつけた。
ゲド戦記の第五巻『ドラゴンフライ』を読んでいた。そういえば、ゲドはしょっちゅう凍えそうになっている気がする。寒いのはつらいよね。

11月20日

起きると途端に寒い。
朝が特に寒い。暖房をつけようかと思ったが、12月までつけないことにしているのを思い出し、やめる。いったいなぜこんなことをしているのか、つけたければつければいいのに。
日中もずっと寒い。とつぜん冬がきた。明日もこのくらい寒かったら耐えられないだろう。

11月21日

やはり朝が寒い。今日の昼間はわりと暖かかった。
金井美恵子の「日記」という短篇小説を昼休みに読む。よかった。この小説の「私」がまざりあってしまうのはそれがどちらも書かれた「私」だからだろう。夢についての記述がある。何日か前に読んだ色川武大の「復活」も夢の話だ。この短篇は夢への入口は明瞭である。出口が曖昧で、夢から覚めているかのようだけど、覚めていないようでもあり、そのあたりが面白かった。ゲド戦記もしょっちゅう夢ばかり見ている。私はあまり夢を見ていない。とにかく寒い。寒くて目が覚める。夏は暑くて冬は寒い。最悪の部屋だ。明日の朝には暖房をつけてしまうだろう。だったらなんだ。そうしたらこの記録はおしまいだ。

11月22日

それほど寒くなかった。
昼間なんて暖かいくらいだった。

11月24日

実家に帰っていた。実家は暖房がついていた。犬がファンヒーターの前でじっとしていた。8メートルのリードで犬を連れ出し、山の中を歩いた。犬は歩きながら木の枝を加え、いつの間にか落としていたが、帰り道に同じ枝を見つけて加えていたので感動した。得意げに枝を加えて前を歩く犬のお尻が左右に揺れていた。

11月25日

5時30分に起きた。朝がとにかく寒い。昼間はそれほど寒くない。夜は寒いが、いろいろとやることがあり忙しなくしているので、暖房のことは考えない。布団に入ると暖かい。ベッドは寝るだけの場所にしたほうが良いというが、つい本を持ちこんでしまう。

>死について考えずにすませるためには読むのがいいと知っていた。死に対抗できる最も手軽な方法は読むことだ。この意見に賛成の人と一緒に一晩じゅう本の話をしていたい。
チョ・セラン『シソンから、』

11月26日

朝起きて寒いので、暖房をつけた。
敗因、実家に帰って暖房のついた部屋の良さを実感したため。

遠くまで泳ぐ

遠泳という言葉が好きだ。
すこし前のこと。プールに通うことにした。健康的な習慣をつくろうと思った。
しかし、一か月通ったきりで近頃ではぜんぜんいっていない。
一か月というと、少しはがんばった感じもしないではないけど、週に一度行っていただけだから回数にしてみれば四回ということで、三日坊主みたいなものだ。
四回目のとき、ロッカーの中に水泳ゴーグルと水泳キャップを忘れてしまったことが原因のようだ。なんだかぷつんとやる気が消えた。
プールでは私の倍の年齢はあろうかという人でも長い時間泳いでいて驚く。自分を痛めつけるように禁欲的な力強い泳ぎをみせる若い人とはまったくことなる、のろのろとした泳ぎ方でながくながく泳いでいる。
「遠泳」と思い浮かぶが、遠泳は海を泳ぐときの言い方ではないか。などと迷う。プールで遠泳というのがあるのか、知らない。
二人で遠泳をして誰か死ぬ、なんて物語を読んだ記憶がある。
いくつかの物語がまぜこぜになった記憶のような気もするけど、遠泳では人が死ぬのだ。死にはしなしないにしても死を思い浮かべたりして、とにかく死に近づく。私にとって遠泳にはそのようなイメージがある。
近頃読んでいる『ゲド戦記』(本当になんてすばらしいんだろう!)では、泳ぎはしないけど、遠くのほうへと船を走らせて、やはり死に近づいていく。
逆にいえば、シーモア・グラースは遠泳を阻止したのだともいえる。遠泳の死は免れたけど、拳銃によって死ぬ。拳銃も、まあ、人が死ぬのだ。
昨日読んだ三浦哲郎の「拳銃」という短篇は、タイトルのとおり拳銃の話なのだけど、別に誰も死なない。人を殺さない拳銃のほうが重々しい存在感をかんじる。この短篇では、拳銃はむしろ生きるための重しになっている。
そういえば、私はかつて川床の拳銃を探したことがある。あまりない経験だろうから、いぜんブログにもそのことを書いたけど、消してしまった。書いたつもりでいて、さかのぼってみたけれど見つからなかったので、消してしまったのだろう。そもそも書いていないかもしれない。
なんだか、別に拳銃も遠泳も、そんなことはそもそも関係なく、死とはいつでもどこにでもたちこめていて、少し敏感になれば、容易にその存在を見出すことができるだけなのかもしれないなどと思う。
いや、だからこそ、のろのろと、ゆったりしたフォームで、ながくながく泳ぐのだ。じっくりと片方ずつの腕を回す。25mプールをいったり来たりすることは、やはり遠泳ではない。単調な往復にすぎない。それを肯定するおおらかなフォームにあこがれる。成長する植物のように生に向かっていく。生を肯定する言葉を探している。私の生だ。
読点では、ひといき、句点では、ふたいき、呼吸を置きましょうと、そんなことを、習った気がしないでもない。とおくへと泳いでいくために、なんども、なんども、いきつぎをして、ゆっくりと、およいでいこうとして、みるのだけれど、そうではなく、呼吸することばかり、考えていては、あさくなった、呼吸はかえって、息苦しく、なるのではないだろうか。とおくへ、とおくへ、ゆっくりと、おおらかなフォームで、私も泳いでいきたいのだけど。

すこし寒いですね

朝晩はだいぶ寒くなってきた。
布団にもぐるたのしみがこの季節にはある。
好きな季節だ。
気分も軽快になる。
回復していくような。
もう少し寒くなると、また、何もする気が起きなくなる。
春と秋のほんの少しの期間だけ、気分が良い。
季節に敏感にいたいのではなくて、季節を気にしないでいたいのかもしれない。
夏の暑さは身の回りの空気そのものに抵抗をかんじるし、冬は寒さのあまり身体が梳いていく。
この頃だけは、身の回りが透明で私の輪郭が濃くなる。
頭も明瞭でよく眠れる。
食欲も旺盛だ。夏の間に痩せた分体が大きくなり、世界に対する私の比率は大きくなる。
とはいえ、昨年の今頃は床に伏していて2か月ほど会社を休んでいたのではないか。
透明な季節のくっきりとした私の輪郭も、まあ、気休めのようなものなのかもしれない。
こうだろう、と思ってみても私は矛盾している。
矛盾していることはうれしいことのようでもある。
定められた枠から逃げ出す原動力になる気がする。
しかしやはり説得力に欠けるような気もする。
だいじなことを言葉にしているつもりでも、過去の私の言動がそれを弱弱しいものにしてしまう。
言葉にすることで、私は私の輪郭を明確にしようとするけれど、それは脱皮ににていて、たしかにくっきりと浮かび上がった私はもはや私のものではなく言葉のものになるのだろう。
言葉は私のものではなく、私たちのものだからだ。
言葉にすることで、私になりたいのか私ではなくなりたいのか、よくわからない。よく理解できるようになる気もするし、遠くなるような気もする。

文庫本が好き


柴田元幸訳の『ナインストーリーズ』が読みたくなったので、本屋へ出かけたがなかった。
部屋を探したら野崎訳が見つかった。
新潮文庫版の『ナインストーリーズ』はいかにも文庫本という感じで好きだ。

私は文庫本が好きだ。大きな本より比較的やすいし、なによりかさばらない。電車の中でも勇猛果敢に分厚くて大きな本を読んでいる人もいるけれど、私にはできない。単行本をずっと持っていることができない。

私の文庫本の好きさはその身軽さだから、分厚い文庫本はどこか矛盾した存在に感じる。京極堂シリーズは分冊版で買っていた。虚無への供物も分冊版で買った。
長編小説も私にとっては文庫本との相性かあまりよくない。光文社版のドストエフスキーなんて文庫で何冊もありぎょっとする。

家で椅子に座って読むなら、ハードカバーの本の方がいい。横にノートを広げながら読んだりメモを書き込んだりするなら、文庫本はちょっと扱いにくい。家の外で、喫茶店で、電車の中で、公園で、読むなら文庫本がいい。改札の前で待っているときも、欄干の上を曲芸師みたいに歩くときも、宇宙の果てですでに遠く見えなくなった地球との別れを惜しむときも、気軽に読める。

三島由紀夫が戦地へ方丈記だけを持っていったというエピソードを聞いたことがある。どこでだれから聞いたのか、本当のことなのか知らないけれど、文庫本とはそういうふうに付き合いたいという憧れをいだいた。

一時期、短篇小説が好きだという人に共感を覚えていたけど、どちらかといえば短篇小説より文庫本が好きなのだ。とはいえ、長編小説に比べればたしかに短篇小説は文庫本と相性がいいだろう。

詩歌が私にとって身近に感じられないのも、多くの詩集や歌集がいぜん物としての主張が大きく感じられるからだと思う。
軽やかさは、軽んじられてるということでもあるはすだ。文庫本は軽んじられてる。
ボールペンでいえばジェットストリームだ。
「普段使い」という俗悪な言葉を受け入れるなら、文庫本は普段使いの本とも言えるだろう。

だから『ナインストーリーズ』なのだ。
厚さもちょうどいい。ポッケに入ってほしいし、サコッシュにも入ってほしい。

中公文庫のカーヴァーの作品集も良い。
カーヴァーといえば、村上春樹翻訳ライブラリーの青のイメージの装丁やThe complete works of Raymond Carver のカラフルなイメージだけど、Carver's dozenのあの腕組みしたカーヴァーがじっとこちらを向いてるちょっといけてない表紙が逆に親しみを感じさせる。つまり、ジェットストリーム的であるということだ。
それがベストセレクションだというのも良い。
スピッツビートルズも私はベスト盤から入ったし、ベスト盤も好きだ。
ベスト盤の役割が入口であるばかりとは限らない。
没頭するのではない親しみがベスト盤にはある。
そしてそれは文庫本にもある。

驚くべきことに、気軽さと親しみは深い愛となんの矛盾もしないのだ。


とはいえ、このごろではコンビニのビニール傘の値段にぎょっとするように、文庫本もまたうっかりどこかに置き忘れることに耐えられないほど、金額という重みが、サコッシュの肩紐にのしかかっているのだけれど。

冷たいごはん

ミールプレップというらしい。 何食分かのおかずをいっぺんにつくり、白米もろとも一食分ずつタッパーにつめて冷凍する。 youtubeでいろいろと安上がりで簡単に作れるものが見つかるので真似している。 お昼のお弁当として紹介しているものが多いけど、私は夜ご飯にしている。 帰宅して、電子レンジで温めるだけなので楽だ。 とはいえ、不満もある。うまく解凍できなかったり、冷凍前によく冷ましたつもりでも解凍すると汁っぽくなったりする。 特に、食べ始めてから、解凍しきれていない白米が口の中に入いると、とても残念な気持ちなる。ざらついた嫌な食感が舌にのこる。いったい誰の悲しみを思い浮かべたら良いというのか。

白米は温かいほうがいい。 でも、冷たい白米も嫌いじゃない。 母親に作ってもらったお弁当を思い出すからかもしれない。学生時代にひとりで食べていたお弁当を思い出すからかもしれない。いずれにしろ、かつてほど頻繁に食べることのなくなった冷たい白米を食べるとき、なにか遠くなってしまったものに、微かに触れるような気がするのだ。それがどのようなものであれ、遠くにあるものに触れることはほのかに暖かい。ああ、大人になると味覚が変わるというのは舌が思い出を湛えるからかもしれない、などと思ったりするのだ。

しかし、解凍しそこなった白米には何の思い出もない。ただただ生活をし損なった悲しみだけがある。ならば、あなたがいつかこの悲しみを思い浮かべてください。

骨のかなしみ

先日の投稿で、私の身体が曖昧だと書いたけれど、それは嘘だ。むしろそうなりたいという願望であったような気がする。だって、不安でたまらない夜を過ごしているけれど、こんなに暑いというのに溶けさえしないのだ。

どろどろに溶けてしまいそう。溶けてしまいたい。
冷房をつけずに窓を閉め切ったまま寝たら、私は死んで溶けてしまうかもしれない。死んだら溶けるだろう。
実際にとけかかったものをみたことがある。掴めば滑り落ちる皮膚と血流が滞りふくらんだ柔らかい肉に触れたことさえある。

ずいぶん前に、フランシス・ベーコンの絵をみたとき、人の身体は肉なのだと思った。同じころによく聴いていたトモフスキーは、〈心と身体はつながってるらしい〉と「脳」のなかで歌っていた。同じアルバムにに収録されている「骨」では〈脳よりか骨だろ〉と歌っていた。〈燃やしたって燃えないんだ〉とも歌っていた。私は骨でいこうと思った。そうだ、以来私は骨である。

骨は暑くても溶けない。
私はけっして溶けない。それでも、あなた方と溶け合ってしまいたいと思うから言葉を発するだろう。
言葉は私とあなた方の共有物であり、言葉であろうとすることは私とあなたが同じものになってしまうことなのでないか。
あるいはひらがなにひらきたくてしかたないのもどろどろに溶けあってしまいたいからかもしれない。
しかし、スマホで入力された文字の明瞭な輪郭は、たとえどんなにひらがなへとひらいていったとしてもそれらはひとつひとつの文字として崩れることはない。手書きだったらわたしもあなたもきっとすでにひとつの線だ。
これは骨のかなしみに似ている。ある晩、灼熱のアパートで死んだ私の身体が確固とした骨としてとり残されているそのかなしみに。表面はかわいている。世界のすべての表面がうっすらと湿り気をおびている夜なのに、私の骨は乾き、溶けることがないままそこにある。

道具に馴染む

道具に馴染む
昨年末、パイロットの万年筆をもらった。
金ペンの入門的な一本だという。入門といっても、自分ではなかなか手がでない。
それはMニブで、同じMでもステンレスのものとは書き味がまったくちがう。どちらが良いというわけではないのだけど、まったくちがっている。
嬉しくて、くれた人の前で、さそっくインクをいれて書いてみた。ところが慣れない書き味のため緊張した字になってしまい、私たちは戸惑った。たまたま広げたノートの6mm罫線は小さすぎたし、なんだか気詰まりな雰囲気になってしまった。

万年筆の世界には、使えば使うほど手に馴染むというある種の信仰のようなものがあるらしい。手ぐせで、ペン先が変化するということのようなのだけど、実際のところはよく知らない。
自分自身によく馴染んだ道具というものには憧れがある。
使い込んで、まるで身体の延長のようになるもの。
料理人の包丁とかミュージシャンの楽器とか。
費やした時間と情熱に、ものそのものが応えてくれるという。
いぜんバイトをしていた植木屋で、はさみの研ぎ方を教えてもらったので、実践して見てもらったところ、最終的には使う人の好みだからとつっけんどんに言われて感動したことがある。

とはいえ、日々ささやかな不安に苛まれる私にとっては、そもそも、道具がよく馴染むというその身体そのものが曖昧だ。
だから、道具とはむしろ私に身体を与えてくれるものなのではないかと、もらった万年筆で書きながら、しだいにその書き味が楽しくなりながら、思った。

道具が私に馴染むのではなく、私が道具に馴染んでいる。
きっとどんな道具であれ、使っていれば私の身体は馴染んでいく。
精巧な工業製品よりも、私の身体はやわらかい。

ところが、ほとんどの場合、私は最初に手にしたときの違和感で、それを手放してしまう。使いにくいな、と思ってしまう。
しかし、手放さずにしばらく付き合いたくなるモノもなかにはある。時間のなかでつくりあげられた価値だろうか。それは権威といってもいいかもしれない。

権威という言葉はネガティブなもののようで、どきどきしてしまう。
しかし、その胸の高鳴りが権威への嫌悪感なのか馴致されることへの悦びなのか、わからなくなり、私はますますあいまいになっていくようである。