ブログを更新したいと思いつつなかなか書けないでいる。
書きたいことはあるのだけど、書き方がよくわからない。
世の中とあまりつながりがないような気がしている。仕事に行っているし、数人のとても親切な友人もいるのだけれど。
ブログを書くことは、その気分を多少な慰めてくれる。もちろんとくに読まれてはいないし、つたないものを人目に付くところにおおっぴろげにすることに罪深いというか、恥ずかしいというか、臆病なコミュケーション以前の振る舞いではないかと情けなく思う気持ちもあるとはいえ、それらをひっくるめて、悪い慰めと呼んでいる。絶望的な気分にあっては、たとえ悪かろうが、慰めが必要なのだ。
そうだ。問題は絶望的な気分のことだ。私は今かなり絶望的な気分で、そのことを書きたいのだけど、そのことがよくわからない。この気分をあまり感傷的にならずに、広々とした土地の遠くに見える枯れた木の枝が、強風にあおられて折れてしまうさまを描くように書けたらいいと思う。折れてしまうときの乾いた音を強風の中でも、わずかに聴き取ってもらえれば。そういうものが良いと思う。乾いていて、見晴らしがよくて、ちっぽけなもの。
『LOVE THAT DOG』という本をちまちまと読んでいる。男の子が先生に提出するノートの体裁をした小説だ。男の子は詩を書くことになる。課題でも与えられたのだろうか。はじめのうちはごく短く、詩について文句を言っているのだけれど、日が経つにつれて少しずつ、言葉は増えていって、詩のようになっていって、良い感じになってくる。とても素敵。言葉を書くことはこうでなくっちゃ、という気持ちになる。
高橋源一郎がたびたび書いている失語症を克服したエピソードを思い出す。
「このティーカップすてきねえ」
「うん」
「ほんと、いいティーカップだわ」
「そうだねえ」
「何か、いいのよねえ、このティーカップ」
「失語症患者のリハビリテーション」より
まず、小さなことを書く、とりあえず書いてみる。そこから、まずはそこから、少しずつ広がっていく。
書くことは、なりたいものになるためでも、目的地にたどりつくための手段でも、ないときがある。言葉がひとつながりの線なのは、結果としてそう見えるのであって、まず踏み出した一歩目の、その次の一歩が存在することの発見と喜びにささえられながら、ふらふらと歩んでいくことでもある。そういうふうに楽しみながら書けたらいいだろう。絶望的な気分もまたそのように書けたらいいだろう。
まあ、ようは気軽に書いてみればいいじゃない。
仕事が続かないかもしれない。少し前に2か月ほど休職をしていたけれど、この頃もとつぜん休んだりしている。数年前にも休職していた。有給はすっかりなくなってしまったので、休むと給料は減っていく。そうすると焦燥感がつのる。だいたいお金がない。ときおり衝動的な浪費を繰り返しつい半年前まで借金があった。医師によると双極性とのことだけれど、あまりピンときていない。本を読んだりすると、みなもっと大変そうだと思うからだ。会社から別の医師に相談するように言われている。意図はわからない。しかし、別の病気だと言われたら誰を信頼したらいいのかわからない。だいたい病気じゃなかったらどうしたらいいのだ。それならそれでいいのかもしれない。私は自分の無能を受け入れなさすぎている。そのせいで、人前でやたらと自分がいかにできない人間であるかを喧伝して回っているところがある。転職をすれば良いのかもしれない。だからさっきから無能なんだって言ってるじゃないか。若くもないのだし。そもそも抑うつがひどくてそんなことする気になりません。むしろ突然イライラする。それはアブナイです、と医師。そんなときはこれを飲んでと処方されたもの一服。ぜんぜん効かないじゃないか! それはいつの話だ? だいいち病気のことは大した問題ではない。もっと、孤独感に苛まれているのだ。布団の中でどきどきしてる。いま心臓が痛み出したらどうしよう。それは孤独か? 孤独なんてものは、今にはないのでないか。未来からやってくる。数年後、十数年後の、抑うつからくるネガティヴな私の思考が綴った先に見えるその私の姿が、孤独なのではないかと、思い浮かべて不安になっているのではないか。それを症状というのか? どきどきしているのは、動悸で、この頃は睡眠薬の効き目が悪くて、思えば、睡眠薬を服用するようになってから眠り方を忘れてしまった!
ここまでが私の一呼吸。
淡々と書こうと思ってもだんだと演技っぽくなってしまう。
まあ、まずはこんなものではないだろうか。書いてみると、間抜けのようではないか。切羽詰まった気持ちも間抜けだと思えれば、それはそれで書くことの効用なのかもしれない。
本当にそうかな。
むしろ絶望的な気分が、言葉にしてみたところ、「こんなもん」になってしまうことが恐ろしいのかもしれない。
どっちも本当だというのが、本当だろう。
書いてみて、距離ができて、ゆっくり眺めて、落ち着くことと。絶望的な気分の輪郭を丁寧になぞり、はみ出し、より大きくはっきりした形のあとを追いかけることと。
そのどちらの歩みにも、向かえるわけだけど、そのためにはやはり、まずは小さな一歩をはじめなくてはならない。その二歩目の感度のために。その始め方は、まだわからない。