小学生のとき。たしか5年生か6年生だったと思う。
新しい学年になり、それぞれがA4の用紙に自己紹介を書いた。私は自分の長所に「すぐうちとけられる」と書いたのだった。
そのことをよく覚えている。
なぜなら、それは私のその後の自己評価とまったく正反対のものだからだ。どうしてそんなことを書いたのだろうか。いっさい自分でものを考えたことなどなかった10歳か11歳ころの私が「うちとけられる」だなんて言い回しを用いたのは、きっと誰かにそのように言われたのだろう。
自らの長所を自分でひねり出すなんて、当時の私(いや、今の私にとっても)とても気恥ずかしいもので、それでも何かしら書かねばならないと思った結果、他人から言われたのだから良いだろうと自分を納得させたのではなかったか。思い出してみると、その自己紹介用紙のこともぼんやりと思い出される。いくつかの四角い枠に区切られていて、一番大きな枠に自画像を描いたように思う。その他のスペースには長所の他に、短所や好きなもの嫌いなもの尊敬する人だとか、そんななものが並んでいただろうか。その他のスペースには何を書いたのかすっかり忘れてしまった。それなのに、長所の部分だけ当時よりも20年以上経ってなお鮮明に覚えているのは、後々自分がいかにコミュニケーションが上手にとれないのかと進学や転職のたびに思い悩むことになってから思い返したからではなく、その当時からどこか嘘をついたときに感じるような居心地の悪さを感じていたのかもしれない。
たしかに、教室の廊下側の壁に張り出されたその自己紹介用紙のすぐ横、教室の後ろ側の扉の前に私の席はあって、ときどき不意に飛び込んでくる自分の用紙にどことなく嫌な感情をいただいていたのではなかったか。
今となってみれば、小中学校は私が人生で唯一下の名前で呼ばれていた時期で、それなりにしたしげに接してくれる人もたくさんいたけれど、小学校の集団登校時を除けばたいてい一人で登下校をしていたのだし、その理由がよくわからないまま、かたくなだったと思う。
ところで、私は旧約聖書に出てくる「頑な」という言葉が好きだ。私の不幸(そう驚くべきことに私は私が不幸だと思っている)は私の頑なさにあるのではないかと思っている。とはいえ、旧約聖書のそれはとうぜん神なのかそういった超越的なものとの関係における頑なさなのだろうけれど、信仰をもたない私はいったい何にたいしてかたくななのかよくわからない。
思えば、この私は、溶けてなくなってしまいたいと思っている。言葉はその端緒だろうかと常々思う。というか、私を私として認識されたいという気持ちとあなたがたと同じ私になってしまいたいと願う気持ちとその淡いに私の「私」はあるように思う。
とすればまったくうちとけられないにも関わらず「すぐうちとけられる」などと書いてしまったすでに頑なでありつつも無分別な私はやはりすでに私だったのかもしれない。