あまり人と会わない。
たまに人と話すと誤ったことだけを口にした気になり、一挙手一投足もすべて後悔する。扉の開け方から間違っていたような気になる。
なのでたいていの場合、翌日は寝込むことになる。
なんて傷つきやすい!
いったい何歳まで傷つきやすいままでいていいのやら。
前に読んだ胡乱な本に、依存症者に危険な状況に慣れることを説いたものがあったけれど、少なくとも私などはもう少し傷つき慣れたほうが良いのは事実かもしれない。
もちろん、逆の手もある。
まずは口を塞いでみよう。霊長目ヒト科ヒト属ヒトは鼻でも呼吸ができる。死ぬことはない。沈黙の行。口は災いの元。身から出た錆。嘘から出た真。棚からぼたもち。おむすびころりん。
今朝、家を出るとき、右足から出るか左足から出るか迷うことはなく、いま思い出すこともできず、したがって後悔もない。そのように過ごせれば良いのではないか。そもそも、階段から落ちたとして、ああ右足から降りるんだった、という後悔もしないだろう。
ひとりでいて後悔することは少ないかもしれない。
油がはねて、もう少し火を弱めるべきだったとか、油を少なくするべきだったとは思わない。できなかったことも責めない。晩御飯を食べたら三〇分歩こうと思っていたことも、まあ気にしない。帰り道にお菓子を買ってしまったことも、寝る前に日記を書かなかったことも、友達の出産祝いを渡すための日にちを決める連絡しなかったことも、気にしない。なぜなら、私は何にもできないからだ。できることのほうが少ない。少なくとも少ないと思っている。だから、何にもできなくても、いまさらそんな自分にがっかりしない。いや、そうではなく、たしかにそういう面もあるにしろ、もっと、私は私自身への過剰なコントロール欲をほどほどのものにしようと、長い間試行錯誤してきたのではなかったか。そんな気もする。
結果として、私は主体性を失いつつあり、犬を飼うように、私に対して、ソファを齧らないようにどかしたりぬいぐるみを床に置かないようにしたりしつつも、時々カーペットの上で粗相をしても許せない気持ちになったりしないようになったのかもしれない。だとしたら、それは良いことかもしれない。そのまま、植物を育てるように、私に対して、意味もわからぬまま、水をあげたり、日向に置いたりしつつ、喜びも悲しみもあってないような、ただ日を浴びてつくる影のゆらめきに感情の比喩を育むだけになればいい。
「私」はよい。木になりつつあるから。
では、まったく間違ったことだけを話している気になるのは、他人へのコントロール欲のせいなのかもしれない。
私自身へのコントロール欲は馴致され、もはや草木も視野におさめつつあるというのに、どうやら私は他人のコントロールできなさに恐れ慄いているのではないか。
私のすべての言動に、他人がどのような感情を抱いているのかわからないからこそ、私は不安がり、こんな気持ちになるならば何も言わなければよかったと思うのではないか。たしかに草木ならば無理もない。草木にとって大事なのは、他人の言動だけではないか。自身の言動などよりも、他人の言動だけがその生命を脅かすのだから。いや、これは言い過ぎなのだけれど、草木の比喩を手放したくはなく、今さらなかったことにもできない。
自分より他人がコントロールできないことのほうが自明に思えるけれど、いったいどうしてそう思ってしまうのか。コントロールしたいというか、どうして嫌われたくないのか。そうだ、私は元から他人から嫌われている気がしていて、他人をコントロールしたいという言い方は正しくなく、他人から嫌われたくない、というほうが正しい。
たしかに私はたいていの人と同じように何人かの人に嫌われていたことがあり、しかしそのことを人一倍重要視し過ぎているのかもしれない。
「たいていの人」に起きることだというのに。もちろん「たいていの人」と書いたのは、理性というか、そういう分別のようなものが書かせたのであって、実際のところ、人に嫌われることが「たいていの人」につきものだなのどとは思っておらず、だから、私だけが人から嫌われていると思っているのであって、それゆえに、これ以上嫌われることがないように、転がっていくおむすびを追いかけているのだ。ぼたもちを棚におさめ、真となった嘘を告白し、錆を拾い集め、口を封じようというわけだ。
だとすると、問題は嫌われる原因がよくわかっていないことかもしれない。原因がわからないまますべての言動にその可能性を見出し、不安に震えているのだろう。もちろん、誰も嫌ってすらなく、そもそも気づかれてすらいないという妙な慰め方もあるだろう。たしかにその通りである。私は誰も私に気づいていないとも思っている。一度しか会っていない人は全員完全に忘れていると思っている。さもなくば嫌っているかだ。だから同じ話を二度する。だってあなたは忘れているのだから。もし私がなん度も同じ話をしていると思っていたら、ぜひとも教えて欲しい。夏の日をひとり、限りなく繰り返し続けた午後にふと耳元で囁かれたかのように感動するだろう。そして、私はその涙を後悔し、寝込むことになる。