遠泳という言葉が好きだ。
すこし前のこと。プールに通うことにした。健康的な習慣をつくろうと思った。
しかし、一か月通ったきりで近頃ではぜんぜんいっていない。
一か月というと、少しはがんばった感じもしないではないけど、週に一度行っていただけだから回数にしてみれば四回ということで、三日坊主みたいなものだ。
四回目のとき、ロッカーの中に水泳ゴーグルと水泳キャップを忘れてしまったことが原因のようだ。なんだかぷつんとやる気が消えた。
プールでは私の倍の年齢はあろうかという人でも長い時間泳いでいて驚く。自分を痛めつけるように禁欲的な力強い泳ぎをみせる若い人とはまったくことなる、のろのろとした泳ぎ方でながくながく泳いでいる。
「遠泳」と思い浮かぶが、遠泳は海を泳ぐときの言い方ではないか。などと迷う。プールで遠泳というのがあるのか、知らない。
二人で遠泳をして誰か死ぬ、なんて物語を読んだ記憶がある。
いくつかの物語がまぜこぜになった記憶のような気もするけど、遠泳では人が死ぬのだ。死にはしなしないにしても死を思い浮かべたりして、とにかく死に近づく。私にとって遠泳にはそのようなイメージがある。
近頃読んでいる『ゲド戦記』(本当になんてすばらしいんだろう!)では、泳ぎはしないけど、遠くのほうへと船を走らせて、やはり死に近づいていく。
逆にいえば、シーモア・グラースは遠泳を阻止したのだともいえる。遠泳の死は免れたけど、拳銃によって死ぬ。拳銃も、まあ、人が死ぬのだ。
昨日読んだ三浦哲郎の「拳銃」という短篇は、タイトルのとおり拳銃の話なのだけど、別に誰も死なない。人を殺さない拳銃のほうが重々しい存在感をかんじる。この短篇では、拳銃はむしろ生きるための重しになっている。
そういえば、私はかつて川床の拳銃を探したことがある。あまりない経験だろうから、いぜんブログにもそのことを書いたけど、消してしまった。書いたつもりでいて、さかのぼってみたけれど見つからなかったので、消してしまったのだろう。そもそも書いていないかもしれない。
なんだか、別に拳銃も遠泳も、そんなことはそもそも関係なく、死とはいつでもどこにでもたちこめていて、少し敏感になれば、容易にその存在を見出すことができるだけなのかもしれないなどと思う。
いや、だからこそ、のろのろと、ゆったりしたフォームで、ながくながく泳ぐのだ。じっくりと片方ずつの腕を回す。25mプールをいったり来たりすることは、やはり遠泳ではない。単調な往復にすぎない。それを肯定するおおらかなフォームにあこがれる。成長する植物のように生に向かっていく。生を肯定する言葉を探している。私の生だ。
読点では、ひといき、句点では、ふたいき、呼吸を置きましょうと、そんなことを、習った気がしないでもない。とおくへと泳いでいくために、なんども、なんども、いきつぎをして、ゆっくりと、およいでいこうとして、みるのだけれど、そうではなく、呼吸することばかり、考えていては、あさくなった、呼吸はかえって、息苦しく、なるのではないだろうか。とおくへ、とおくへ、ゆっくりと、おおらかなフォームで、私も泳いでいきたいのだけど。