悪い慰め

感傷癖から抜け出すためのレッスン

読書日記

7/9


休みの日に『正しい日間違えた日』を観ました。
ある一日を二つのパターンで描いた映画。ホン・サンスの映画に出てくる距離といえば「カンウォンドの恋」が好きなのだけど、今作の距離もとても好きなものでした。
同一と思われる一日を二度繰り返し、出来事が微妙に違っているというもので、水原に映画の上映と特別講義にやってきた主人公の映画監督が、画家をしているという女をナンパするというだけの話なのだけど、おもしろいのが映画監督が一度目の一日を踏まえて二度目の一日をむかえているようにもみえます。みえますというか、観ている側からすれば、たしかに一度目の一日を観た後で二度目の一日を観ているのだから、一度目を踏まえて観ているのだし、現に「一度目」とか「二度目」というふうに書いています。とはいえ、そんなことも面白いのですけど、それ以上に画家の女を演じているキミ・ミニが可愛くて、この一月で観た三本のキム・ミニ主演のホン・サンス映画のなかでは可愛さだけでいえば圧倒的に可愛かったように思います。その可愛さもちょっとヤバい可愛さで、ヤバいというのは、関わりたくないような危険なヤバさなのがおかしいです。主人公がナンパして二人で喫茶店に行った場面での会話における、頑なな感じだったり、主人公を自分の先輩の店に連れて行ったけど酔って寝てしまう奔放さだったりちょっと厄介な雰囲気があります。喫茶店での場面と先輩の店での場面の間にある日本食店での長回しのシーンで酔っ払ってしなしなしている場面は可愛いというより卑猥だしヤバいのです。一度目と二度目の一日ではやりとりが少しづつ異なっているけれども、このシーンでは二度ともしなしなしていて、ちょっとどうかしているんじゃないかってくらい変態的でそわそわしてしまいました。

 

渋谷の映画館で観たのだけど、ホン・サン水ソーダというダジャレの飲み物が売っていて、「それから」と「夜の浜辺でひとり」のときは飲めず、今回ようやく買えてちょっと嬉しい。

 

 

 

 

 

浅羽通明『「反戦脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』(ちくま新書)を読んでいたら、以下のような文章がありました。

 

  「東京新聞 」で金原氏はこう書きました 〔 * 5 〕 。 「命より大切なものはないと言うが 、失業を理由に自殺する人が多いとされるこの国で 、失業を理由に逃げられない人 、人事が恐くて何も出来ない人がいることは不思議ではない 」 。 「反原発の総理大臣にも 、原発推進の流れは変えられなかった 。天皇がそれを望んでも変わらないだろう 。数万人がデモを起こしても 、デモに行かなかったその何百倍 、何千倍の人々が願っていても 、変わらないままだ 」 「人事への恐怖から空気を読み 、その空気を共にする仲間たちと作り上げた現実に囚われた人々には 、もはや抵抗することはできないのだ 」ペシミスティックな断定ですが 、これほどリアリティに富んだ脱原発への懐疑論はそうはないでしょう 。金原氏は 、 「一階 」で思考する人々を視野にしっかり繰りこんで考えている 。 

 

これは3・11が起きた年の秋の文章だとのことです。以前菊地成孔金原ひとみのある小説について日本におけるラティーノ文学の最も優れたものの一つだというようなことを言っていたことがあったと思います。ラティーノ文学なるものがいかなるものなのかなるほどよくわかりませんが、二つのことは繋がっているような気もします。読んでみようかしら。

読書日記

6/29

 

しばらく日記を書いていませんでした。
サッカーばかりみていたせいです。
本はいちおう読んでいます。
本日は金子光晴『どくろ杯』を少し読みました。
ひとつのところにとどまっていたいと思ってしまう「私」が、周りのせいというか自分のせいであっちへいったりこっちへ行ったりするさまにおかしみがあります。
自分で行動する、というのとはべつにやむにやまれずそうしてしまう、というのは感じ入るものがあります。
私は、死にたいかときかれれば死にたくはないとこたえるだろうけれど、いずれ死ぬよりほかにないだろうな、という気分はずっとあって、それは生活のためだったりするわけだけど、私にとっての死への意志は、やむにやまれずそうするよりほかないという事態に陥ってしまったときに、躊躇なく踏み切るために準備しておかなければならないものとしてあるようです。

 


 7/1

 

 

金子光晴『どくろ杯』を読みました。
自伝的小説。
著者の20代半ばから30代にかけての話。
出てくる人たちや出来事のようすがおかしいです。
ただおかしい事柄が書かれているから、おかしいのではなく、もちろん書き方のためもあるのでしょう。

 

四十年以上もむかしのことで、記憶は摩滅し、風物が霞むばかりか、話の脈絡も切れ切れで、おぼつかないことが多いが、それだけにまた、じぶんの人前に出せない所行を他人のことのように、照れかくしなくさらりと語れるという利得もないではない。

 

事実、それも自分自身のことを直接の題材にした小説を読むとき、対象との距離感が気になります。対象との隔たりをうむのはなんといっても時間で、「いつ」のことを書いているのかというのは重要なのかななどと思います。

読書日記

6/13

仕事。
帰ってきてもあまり本は読めませんでした。
仕事中に『月曜日の友達』を読みました。
最近みているアニメ「恋は雨上がりのように」もそうでしたが、友情について良い場面があったのでそれらについて近いうちにいくらか書ければいいなと思います。

 


6/14

休み。
美容室へ行きました。

 

大西巨人三位一体の神話』を読みました。
著者を思わせる尾瀬を同郷の作家である葦阿(井上光晴?)が殺害するという筋立てです。葦阿は尾瀬の才能に嫉妬し、さらには自らの秘密を尾瀬に公にされてしまうかもしれないという不安から殺害を実行します。
序盤は、尾瀬が雑誌に書いた文章と葦阿の内的独白が交互に記されます。尾瀬に関しては、公に発表された文章という体であるけど、葦阿については内面が書かれているということになります。葦阿は谷崎などをひきながら、尾瀬を「金」、自らを「銀」になぞえるのですが、読んでいて、 葦阿の才能にたいする嫉妬や俗っぽさ、嘘をついてものし上がる様の方に、人間味を感じて親しみをおぼえました。それでも、よくよく考えると、葦阿は内的独白の過程において、ものすごく正直なのです。尾瀬に対する嫉妬はもちろん殺人にかんしてもあけすけと語っています。私のような嘘つきは、嘘をついてるうちに自分自身も勘違いしてしまうものだけど、葦阿はその点冷静だし、なにより尾瀬の才能に気づく程度には才能がある人物として書かれます。親しみをおぼえたのは撤回しよう。

 

尾瀬大西巨人で葦阿は井上光晴かな、などとぼんやり読んでいくわけですが、作中で尾瀬は、モデル小説や私小説を批判します。
尾瀬の娘の恋人で探偵としての役割を担う拁市の探偵ぶりが面白くて、拁市は尾瀬の全集をつくる仕事を通じて尾瀬殺害の犯人に迫ります。しかもその方法は尾瀬の書き残したものを読むことによります。文学探偵といった風。なんならモデルを追求していくような読み方に感じます。テクストを読み込み、さらには未発見の文章を探し出す。けれど拁市が迫っていくのは尾瀬ではなく、犯人の葦阿です。

 

実は作中には尾瀬に関する謎があります。ひとつは尾瀬が葦阿の秘密をどこで知ったのかということ。もうひとつは尾瀬が葦阿の秘密を公にしようとしたのか、ということ。この二つは謎のままです。というか謎としても認識されません。唯一そのことを気にするのは犯人の葦阿だけです。となると妙なのが、犯人葦阿は同時に、尾瀬のことを追う探偵にもなります。そうすると、尾瀬は犯人なのか、というとどうなんだろう。尾瀬の背後に作者を透けて見てしまいますが、作者が犯人というとなんだか収まりのいい気もします、、、、

 


6/17

 

渋谷でホン・サンス夜の浜辺でひとり』を観ました。
劇中の飲食場面に惹かれ、韓国料理を食べます。マッコリを飲む。

 

 

6/18〜24

 

仕事や休み。
サッカーばかりみています。
本も読んでいるものの、日記を書くのは優先順位が下がってしまっているので、しばらくダメそうかな。

読書/日記

6/6

 

仕事。
本日から梅雨入りで、終日雨が降ったり止んだりしていました。


エデンの園 楽園の再現と植物園』を少し読みました。


関口涼子『熱帯植物園』も少し読みます。詩として難しく感じる部分もありますが、熱帯植物園への興味的に面白いところも多いので嬉しいです。ですが、レイアウトが独特なので、引用するのは難しいでしょうか。詩文庫にも入らないでしょうし、手元に持っていたいです。

 

 


6/8

 

J・ブレスト(加藤暁子訳)による「エデンの園 楽園の再現と植物園」を読みました。

 

この本では植物園の成り立ちを中世における聖書の「エデンの園」解釈にみます。

「堕落」によって失われてしまった「楽園」は「大洪水」後にどうなってしまったのか。今もまだどこかにあるはずだ、という解釈は航海時代による新大陸の発見によって断念を迫られます。

新大陸の発見は、どこかにあるはずの楽園への夢を失わせたが、「神の業という本」という考えを後押しし、これが植物園へと繋がっていきます。

 

一六世紀初頭にビベスやラブレー、フィチイーノなどは、人びとが自然界の事実に目を向け、神の創造物を知ることによって、神を身近に感じるように奨励した。

 

「神の業という本」を読みこむ考え方は、「堕落」に際して自然界が毒されたとする見解を、一部変更することを意味していた。神の創造した植物や動物すべてに神が投影されているならば、被造物が腐敗しきっているはずがない。「堕落」によって自然は毒されたのではなく、分散されたのだとする見方が、アメリカ大陸の発見をともなって浮上した。

 

ここから蒐集するという目的ができます。
『世界一うつくしい植物園』にあったバドヴァ植物園が〈薬用植物の収集・栽培を目的として〉つくられたというのはこのような文脈だったということなのでしょう。キリスト教に関する知識があんまりにもないもんで困りましたが、面白かったです。

 


6/12

 

仕事。
いい天気になると聞いていましたが、涼しい一日。夕方にはにわか雨。


三位一体の神話』は「三六〈死〉との関係」まで読みました。
拁市と葦阿との対話の場面より拁市の発言。

 

それに、僕は、全集刊行の実務担当者として、故尾瀬氏の作物をたくさん改めて読み返したり初めて読んだりするうちに、それらにおける『自殺志向』ないし『自殺願望』の『底流』にもかかわらず、“僕『個人として』の問題追及”は、どうしても殺害犯人探しに集中するようになり、いま計らずも遠田の件にぶつかって、“『画期的な道』の問題”を実感しているのです。

 

拁市は読みを通して真相に近づいていきます。
読むことは真相に近くことなのでしょうか。私などは読む側から忘れていくばかりでちっとも何にも近づけませんから、そういう意味では、はったりで文壇に地位を築いた葦阿の人物造形のほうが理解できるかもしれません。葦阿は嘘がバレそうになって人を殺します。それでも金を金と理解できる程度には才能のある人物として描かれていまして、自分と重ねるわけにもいかないのではありますが。

 

 

 

 

 

 

別々の場所から来て、別々の場所にいて、別々の場所へ行く

電話

さみしい人たちよ

電話してください。たぶん

そこからふたりの話ははじまって

文学以外の球をつくることでしょう

「さみしい人たちへの球破壊」岡田隆彦

大学生のころ、スカイプで人と話した。見ず知らずの人ともよく話した。暇だったし休みの日にわざわざ遊びに行くような相手もいなかったので、ある時期は本当にずっと誰かしらと話していた。次第に仲の良い人もできて、数人でオフ会もした。とはいえ、ぼくたちはその頃、猛烈に暇で寂しくして仕方のない時期が重なっただけで、他にお互いを必要とする理由もなかったせいか一人二人と忙しくなるにつれ、関係も薄れていった。
危機的なまでに退屈で、期待に満ちた午後に取り残されてしまったぼくらはほんの短い挨拶を交わした。

 


暇な時間


すごく暇な時間というのがある。疎外によって生まれた時間とでも言えばいいだろうか。自分が当然こうであるに違いないと思い描いていた時間が訪れなかったことによって生まれた時間。
ぽっかりと開いてしまった退屈な時間。淋しい時間と言ってもいいかもしれない。
そんな時間が訪れることがある。
ぼくにとって大学生活はそのような時間だった。
あるいは、今でもそうかもしれない。自分に与えられてしかるべきだと慢心した態度をいつまでも抱いたまま待っている。
同じよう時間にいた人がたまたまばったりと会う。すれ違う。
別の場所にいて、向かっている方向も別々だ。

 


敷居の住人


敷居の住人』という漫画がある。中学生から高校生にかけての青春の話。
主人公の男の子は、ゲームセンターで女の子と知り合う。
よくある話かもしれない。けれど、このシチュエーションにすごく憧れた。
これは男女じゃなくてもいい。ゲームセンターという場所に憧れがあった。ゲームセンターには独特の倦怠感とでも呼ぶべき空気感がある。と思った。それも平日の昼間が良い。
今でも、ゲームセンターを見かけると中に入る。ちなみにゲームはまったくやらない。たまに変わった人をみかける。明らかにゲームセンターにただゲームをしにきているのとは違う人だ。退屈の影をおれは感じる。
けれどおれは冷やかしだ。おれの行動のほとんどすべては冷やかしなのかもしれない。
おれの孤独を誰かに投影する。誰かが孤独をおれに投影する。しかし。

 


思い出すこと


記憶はいい加減だし、思い出す行為自体が思い出を改ざんするかもしれない。わたしが陽明門の前に立ち、あの人に写真を撮ってもらったとき、カメラを構えるあの人の姿をはっきり覚えている。覚えているのに、そのことを思い出すとき、あの人と陽明門の前に行ったあの日の一連の出来事(電車に乗ったこととか、日差しが地面に反射していたこととか、外国人の観光客に道を聞かれたこととか、木の皮に足を滑らせてあの人が転んだこととか)の中の一断片として蘇ってくるのだ。
あの人が初めて自分のカメラを買って、わたしが初めてカメラに映ったことをわたしはあの時から今に至るまで特権的な出来事だと思っているし、それは両者の思惑や経験、共有したものしなかったもの、すべて通り抜けてレンズ越しに視線が合っただろう瞬間が特権的だったということなのであり文脈を飛び越えたのだと。

読書/日記

6/3

休み。

「まんパク」へ行く。

アンカースチームでいい気分。

入場券が800円で食べ物も安くないし、二時間しかいないのはもったいない気もしたが、良い気分なので良い気分。 良い気分ついでに、服を買い求める。 とてもいい一日だった。明日の朝になれば仕事があるなんて信じられない。 明日が来ないでほしいというのでなく、明日が来なくてもいいとでも言えばいいか。

室井佑月『熱帯植物園』 枡野浩一『かんたん短歌の作り方』を読む。 『かんたん短歌の作り方』はなぜだかすごく泣ける。 掲載されている短歌が良いのはもちろんなのだけど、枡野さんのひょうきんな文体をなぜだかじーんとくる。



6/4

仕事。

『世界一うつくしい植物園』という本の中には、22の国と地域にある40の植物園が紹介されている。 写真と短い紹介が載っていて、楽しい。 近頃の「熱帯植物園」への関心から手に取った一冊だったけど、熱帯植物園は「モナコ熱帯植物園」のひとつだけ。「熱帯」の植物園はいくつかある。パラパラと眺めているだけでも、植物園と一言に行ってもいろんな種類があることがわかる。前書きでは、〈環境保全のための自然生態園〉、〈特定の植物を集めた専門植物園〉、〈観光地として楽しめるアミューズメント型〉、〈テーマを掲げて運営するコンセプト型〉などといったふうに分けている。庭なのかドームなのかといった違いもありそうだ。 また、起源については以下のように語る。

植物園の前身となるのは、古代エジプトギリシアの王族・貴族が珍しい植物を収集した荘園です。ただしこれは、特定の個人だけを対象にした空間であることに加え、植物を鑑賞し、楽しむためのもので、対象も目的も、植物園より狭義のものでした。その後中世ヨーロッパの一部の修道院で、医学の起源となる薬用植物学の研究を目的に薬草園が造られました。

娯楽と研究とでも言ったら良いだろうか。これはもしかしたら動物園なんかにも言えるかもしれない。

ひとつ驚いたのは、上記にもひいたように歴史が古いということだ。 取り上げられている40の植物園も古いものがある。

世界最古のものはイタリアにあるパドヴァ大学植物園。〈薬用植物の収集・栽培を目的として、1545年に創設されました。〉とある。

〈1585年に植えられたシュロが、その1本を守るためだけに建てられたヤシ温室のなかで大切に育てられている〉。しかもこのシュロは〈1786年に文学者ゲーテがこの木に感銘を受けたことから、「ゲーテの棕櫚」と呼ばれ〉ているという。

バドヴァ大学植物園は収集・栽培を目的にしたというが、他はどうか。いくつか開園の理由で気になったものをあげる。
まず真っ当そうな理由として「研究」などといった理由が目につく。 チェルシーフェジックガーデンは〈ロンドン市内にある歴史ある薬草園〉で、〈1673年に薬草の栽培と研究のため〉に造られた。グラスゴーボタニックガーデンは〈植物学の研究を目的としたきょういくしせつとして〉、〈1872年に設立され〉た。

「研究」は硬い印象だが、もっとテーマパーク的な趣のものもある。 スペインのルンブラクレは〈科学教育と芸術のための複合施設「芸術科学都市」のひとつであるだけに、植物もアートの一部としてとらえられるような、研究機関としての植物園というよりも、感覚的に楽しむ公園としての要素が強い空間〉。 イギリスのエデン・プロジェクト(楽園としての植物園!)は〈イングランド南西部の陶土採掘場跡地の再生プロジェクトとして「人間と植物の関わりを見直そう」というコンセプトのもと、2001年にオープン〉した。

〈ヨーロッパの名門王家であったハプスブルク家が、ヴェルサイユ宮殿に対抗し、夏の別荘として1696年に建てたシェーンブルン宮殿。〉などとちょっとユニークなものも。

ボゴール植物園は〈ボゴール宮殿に併設されている植物園です。東南アジアで最古の植物園であり、1817年に植民地政策の一環として、オランダが設立した植物園〉だそうで、呑気な理由ばかりでもないことがうかがえる。

全体として文章はあっさりしていて、やはり写真の魅力が大きい。

世界一うつくしい植物園

世界一うつくしい植物園

読書/日記

その日

仕事。

室井佑月『熱帯植物園』を少し読む。 わりかし過激な筋だし、ちょっとしんどい読書だったかもしれない。

表題作のタイトルに惹かれて手にとった一冊だったのだけど、熱帯植物園についての描写は少ない。序盤で、高校生の主人公由美は歳が倍離れた彼氏とデートに行く。

都市再開発計画の予定図に描かれたような日曜の午後二時だが、あたしはずっと足の裏におぼつかなさを感じている。植物園の大温室は隣のゴミ処理施設の余熱によって温められているのだという。まさか匂いまでは供給されてないだろうが、そう聞いて一瞬でも眉をひそめない人間がいるだろうか。それどころか土やアスファルトの薄皮を剥いでしまえば、この島そのものがゴミなのだ。だだっ広く平らな敷地には、時おりとても強い風が吹く。

夢の島熱帯植物園だろうか。熱帯植物園が出てくるのはここだけだ。 とはいえ、派手な性描写や過激な筋、アンニュイな気分よりも、個人的には「熱帯植物園」という言葉に惹かれて手に取った分、花が気になる一編だった。

いまだ生理の経験のない高校生の由美は、そこことのために自分を女ではないと嘯く。由美は父親の愛人であり同じ名前の大人の由美と出会い。物語は始まる。二人の関係が中心となる。 出会いの場面で、由美は父の愛人である由美から赤い薔薇をもらう。赤は作中で繰り返されるイメージで、女の象徴であり血なのだけど、ラストで赤が炸裂するのは、少女である由美が女へと変わっていくものと読める。しかし、花はなくなってしまう。 熱帯植物園へ行った由美は、大人の由美と宮古島へ行く計画を立てる。しかし計画は頓挫してしまう。頓挫した経緯が原因で大人の由美はいなくなってしまう。すると代わりに出てくるのが同級生の富田だ。由美は富田にいなくなってしまった由美を重ねる。それは富田と大人の由美が赤い服を着ていることから連想される。 しかし富田は、赤い薔薇をくれた由美とは違い花をとってしまうのだ。〈グラスの上に蘭の花が飾られている。富田はつまんで脇に除いた〉。 蘭の花は、由美が大人の由美の性器に見たイメージだ。〈一瞬目に映った由美の性器は植物園の蘭の花にそっくりだった。楽園の花〉。 富田は楽園の花を除いてしまう。富田は大人の由美の代わりにはなれない。なので富田はいなくなってしまう。しかし、花もまたない。 ラストシーンで出てくるのは〈天井を這い、無数の炎の花を咲かせた〉という炎であり、花ではない。

花=女に憧れた少女が花を失ってしまった結果、同じ赤でも花ではなく、炎に纏われてしまったのだ、と思うと切ないような気もする。 そうなると、彼氏と熱帯植物園に行くシーンが印象的だ。

彼氏は、熱帯植物園で翡翠葛が咲いていると新聞で見た、と由美に告げる。 由美は彼氏に〈「好きなの?」〉と尋ねる。

「ずっと、見ていたいね」

「もし、あれが貴史にとって珍しくない花だったら?」

なんておかしなことを訊くんだろうというように、彼はあたしの顔を見て笑った。

「きれいなことには変わりないけど、もちろん有り難みは薄れるよね」

「ここまで見に来た?」

「来ないだろ。どこにでもあるなら」

「そうだよね」

「つまらない? 地味な花でがっかりした?」

「ううん。とてもきれいだよ」

貴史にそう見えるなら、と胸のなかで続けた。あたしは、きちがいのような大輪の花こそきれいだと思う。

翡翠葛は青緑色の花なのである。

熱帯植物園 (新潮文庫)

熱帯植物園 (新潮文庫)